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2013年5月19日 (日)

The Spiel

The Spiel

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもない。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎない。

たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、誰かがあなたに何かを与えることもなければ、あなたが受け取ることもない。
それは、あなたがもうすでにそれなのだという何かであり、あなたはそのことに気がつきさえすればいいだけのこと。

そのことは、あなたがもう知っていることなのだが、もう一度再認識する必要がある。なぜならそれは容易に見失われるものだからだ。
このことは、信仰や宗教とは関係がなく、概念や知識とも違う。そしてまた目新しいことでもない。

詳しく調べれば、このことはすべての偉大な伝統に含まれていて、その基礎となっているとわかるだろう。それは明快かつ直接に、あなたの自然な状態を指し示すものである。

あなたは、もうすでに、あなたが探し求めているものなのだ。探し求めることこそが問題だ。なぜなら、探し求めるということは、将来に見つける何かがあるということを意味しているからだ。

例えばヒンズー教では、彼らはそれをアドヴァイタと呼んでいるが、それは非二限性と翻訳される。非二限性を説明するために彼らは「他には何もない一つのもの」という表現を使う。それは、一つという概念でさえ、他にもう一つのものがあることを暗示しかねないからだ。
「それ」以外のものがあるという考えを打ち消すために、彼らは「他には何もない一つのもの」と言う。

仏教の伝統の中にも同じことがある。ゾクチェンはその究極の教えだが、その中で、それは非概念的で、常に新鮮、遍在する意識そのもので、それ以外のものではないものと言われている。繰り返しになるが、「それ」はそこにあるすべてを指している。

多くの伝承や聖典は、いわゆる真理や実存について伝えているが、それは遍在、全能、全知のものであるという。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面― 完全な遍在性、完全な力、完全な知性のことだ。

この完全性の他に何があると言うのか。そしてその完全性の中で、何を、そして誰が探しているというのか。

あなたは、私たちがそれぞれ分離した存在、個人だという誤った信念を抱いていて、その誤った信念のせいで、自分が完全ではないと感じているのに気づくだろう。
その分離の感覚が起こると、不安定で傷つきやすくなり、そこから探し求めることが始まる。

それは、物事の道理がわかり始める二歳ごろから始まる。以降、人は安全を探し求め、そのことが問題となる。
分離した存在という二元的な考えから始めて、非二元性を手に入れようと試みるが、それは不可能だ。なぜならもともと分離などないからだ。

多くの文献や聖典では、このことを顕現と読んでいるが、それは見せかけのことを言っているにすぎず、それはそのように現れるしかない。
もし詳しく調べるなら、それがバイブレーションとなって現象として現れなければ、どんな顕現も現れえないということがわかるだろう。

夜なくして昼があるだろうか、ざわめきなくして静寂があるだろうか、静止なくして動きがあるだろうか、夏なくして冬があるだろうか、引き潮なくして上げ潮があるだろうか。

すべての顕現は形造られ二元的に現れる。しかしそれは束の間のものだ。それは常に変化し続け、定義づけできず、実在とは言えない。
実在の定義は決して変化しないものだが、顕現は常に変化している。それはそのように見えているにすぎない。

私たちはそれが現実で確固とした実体あるものだと信じ込んでいる。それも詳しく調べれば、本当のことではないとわかるだろう。
あなたはあれやこれやを信じているかもしれないが、絶対的に確かだと言えることは何だろう?
あなたは、自分が実在すると信じているのか、それとも自分が実在することを知っているのか?

信じているということと、知っているということでは微妙な違いがある。あなたは知っていることを否定することはできない。「私はいない」と言える人は誰もいない。
そのことについて、あなたが何を信じていようと、実際にはあなたは自分がいるということを知っている。

しかしながら、自分が何なのかということを、あなたは知らない。あなたはある種の概念を身につけ、自分が知っているということと結び付けている。
そのことが現実― あなたが一度も分離したことなどないという現実を直視するのをさまたげている。

あなたが探し求めているものについて言うと、あなたはもうすでにそれなのだ。このことを調べたことのない人たちには酷なことだ。というのも、あなたは探し回って、自分の周りにあるあらゆる分離を見るだろうから。

そして言うだろう。「えっ、どうして分離などないと?」
そして私が言う。「じゃあ、あなたはその体なのか?心なのか?」

そしてもし一度も調べたことがなければ、「そうです」とあなたは言うだろう。しかし本当だろうか。
指し示すところをちょっと調べてみて、体の中に中心が見つかるかどうか見てほしい。

体のどこかに、ここからあなたが始まったという場所や、あなたがそこにいて、これが私だという場所があるだろうか?
たいていの人は、頭か胸かもしくはその他の場所から始まったと言うだろう。しかし本当だろうか?

もし体を調べてみれば、ここから自分が始まった、もしくは、ここが私自身だと言える場所はどこにもないということに気付くだろう。

体を調べてみれば、それが基本的な構成要素でできているのがわかるだろう。空気、土、火、水、空間― あなたを取り巻く構成要素と同じように。
もし自分が分離していると思うなら、自分自身を空気と分離してみなさい。水をあなたの体から取り除き、どれほど生きられるか見てみなさい。

地面から離れ、空間の外へ出てみなさい。体の熱、体温、火を取り除きなさい。それらの構成要素から、自分自身を分離できないことを知るだろう。

そしてそれらの構成要素は原子よりもさらに小さな粒子、純粋なるエネルギーへと分解されうる。
それゆえ、体は知性エネルギーの一様式そのものにすぎない。

私は神という言葉を使わない。それは混乱をもたらすからだ。私たちは皆異なるバックグラウンドを持つ。
無神論者もいれば、不可知論者もいる。キリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、モスリム、ヒンズー教徒などなど。

神について話せば、あなたは自分の伝統的な信仰と私の話を結び付けて混乱してしまうだろう。
私は知性エネルギーという言葉を使うが、私が知性という時、それはあなたの知性のことを言っているのではない。

自然を見てそれが、様式化され、形造られ、具現化されるのを見なさいと言っている。
銀河が形成され、地球や惑星が動き回り、季節が来ては去っていき、潮が満ちては引いていく。

それが意味するのは自然界全体はもともと知性に満ち溢れているということ、そしてあなたもエネルギーの一様式にほかならないということだ。
その知性があなたに呼吸をさせ、髪の毛や爪を成長させ、体の細胞を入れ替え、食べ物を消化させている。それはまったく自然に努力なく起こっていることだ。

ではあなたは心と呼ばれる物だろうか?調べてみて、心という物を見つけられるだろうか?あなたは正確にどこかの位置を示して、これが心だと言うことはできない。
私たちが心と呼ぶ物を通して「私はある」と翻訳される存在の感覚、振動するパターンのエネルギーがある。

しかし、もしあなたが心なら、あなたは思考なのか?心はすべて思考だ。そして思考は繊細なバイブレーション、エネルギーの動きだ。

「私はある」という思考がやってくる時、それは私たちが思考と呼ぶものを通して、あなたがいるという繊細な存在の感覚がバイブレーションとなって表れている。

繊細なバイブレーションとしての思考が振動しパターンとなってやってくるのはむしろ自動的だ。過去に関しては記憶として、未来に関しては、期待や想像となって現れる。
それは常に反対に向かって振動する。― 善と悪、快感と不快、幸福と不幸、愛と憎しみ、肯定と否定。自分の心を見つめ、それ以外のやり方で心が機能するかを見てみなさい。

その原初の思考が「私はある」という思考だ。さてあなたはその思考なのか?「私はある」という思考はあなたと一緒に一日中いる訳ではないことを理解しなさい。もしあなたがその思考なら、それを見失ったりしないだろう。

一日中、たくさんの別の思考がやって来る。あなたが眠っている時や、麻酔にかけれたり無意識の時には「私はある」という思考は無い。「私はある」という思考が無い時、あなたは消滅したりバラバラになったりするだろうか?それとも、知性エネルギー、生そのものが機能し続けているだろうか?だとすると、どうしてあなたが思考でありえるだろうか。

思考は言葉でできているが、言葉はあなたの生得のものではない。あなたが使ってきた言葉やこの先使いそうな言葉でさえ、すべては学んだものである。

赤ん坊は生まれてきた時、どれだけの言葉を知っているだろうか。それで、あなたは一体いつから始まったのか。誕生の時からとあなたは言うだろう。しかし、誰が自分の誕生の瞬間を覚えているだろうか。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていないことに気づき、自分では二歳かそこらぐらいという一定の時期までしか遡れず、それ以前のことは覚えていない。

自分の始まりが出生だと思うのなら、どの時点でそれは始まったのか。内在する知性が様式化し、形造られ、具現化する― その一つのパターンをあなたは父と呼ぶ。知性がそのパターンの中にあふれ、精子を作り出すことを可能にする。

その同じエネルギーが母親の中で様式化し、形造られ、具現化され、卵子を作り出す。卵子には知性エネルギーが宿ってる。というのも、卵子は自分で子宮内膜に着床するからだ。
精子の中にも知性エネルギーが宿っている。なぜなら精子は卵子に泳ぎ着くからだ。このことは、精子もまた知性エネルギーに満ち溢れていることを意味する。

そして精子は子宮に入るためにはどうすればいいのかを知っている。卵子と精子は一つになり、その知性エネルギーが細胞を分裂させ、さらに細胞分裂を繰り返し、小さな胎芽、つまりは小さな胎児を形造る。

あなたが分離した存在だと思うのなら、あなたの胎児の時はどうだっただろう。「今日は腕を成長させなくちゃ、肝臓か、たぶん脳かなんかを少し」と言っただろうか。
それとも、それは何の努力もなく自然に起こったのだろうか。

その段階では分離した個人という考えがないのに気づくだろう。あなたが生まれ出た瞬間に、「さあ、最初の呼吸をしなくては」とは言わなかった。
あなたは、生まれつき、どうすればよいのか知っていた。あなたは乳首にしゃぶりつくことを学んだわけではなく、生まれつき、どうすればいいのかを知っていた。

内在する知性は、あなたがあなたと呼ぶパターンを通して働きかけ、あなたを成長させた。そこには、何かをやったあなたという存在がいたわけではなく、― 内在する知性、生そのもが機能し、すべてを表現している。顕現はあたかも本物のように見えるが、そこには何もなく、エッセンス(実在)があるにすぎない。

仏陀は空即是色と言った。仏陀はそれを空と呼び、それでも真空や何もない空間ではないという。仏陀はそれを認識する空― 知性または知ることそのもので満ちた空― 認識そのものと呼んだ。

仏陀はまた逆に、色即是空とも言っているが、その意味は、様式化され形造られ具現化されるすべての物もまた本質は純粋な内在する知性エネルギーだということだ。

私たちは見せかけを現実として受け取っているために、実在の本当の姿が見えなくなっている。多くの聖典の中でそれは無知と呼ばれている。それは頭が悪いとか愚かだと言っているのではない― それは単に本当の姿を無視して、見せかけの姿を見ていると言っているにすぎない。

スピリチュアルな探究を10年、20年、30年と続ける人もいる。彼らは瞑想し、あらゆることを試みるが、自分が間違った場所を探していることに気付かないようだ。
あらゆる瞑想、あらゆる探究、何かを達成しようとするあらゆる試みは、必ず失敗に終わる。なぜなら、あなたは、自分がもうそれである何かを達成しようとしているからだ。

言っておくが、あなたはマインドの中には決して答えを見つけられない― なぜならマインドは二元的で― 常に変動している。
二元的に揺れ動くマインドは、いつも反対の方向に動くということがわかれば、あなたはどうするだろう?

知性はあなたが間違った場所を探していると知らせるだろう。どこへ行こうがそれがマインドの中だということに気づきなさい。マインドから出る方法は一つしかない― それはフルストップ― マインドにかかわらないこと。

自身にこう問いかけてみるといい。「もし今そのことを考えなかったら、何の問題があると言うのか?」

ちょっと思考を止めて、何を話すことができるか、思考無しで何ができるか試してみるといい。
その間、自分は消えたりバラバラになったりはしないし、呼吸が止まったり、心臓が止まったりもしないのがわかるだろう。

機能は引き続き働き続けている― そこでは概念化は止まっている。仏教徒はそれを一つのセンテンスで表す。彼らは、大いなる完成は概念化されない気づきだと言う。

思考は一瞬停止したあとに、また別の思考がやってくるが、それにもかかわらず、あなたは一瞥を得る。

思考が停止したとき、あなたはばらばらになったり、消滅したりはしない― 実在としてのあなたは思考以前に存在する。そこには、生そのもの、生のエッセンスがあり、思考が停止している間もそこにある。そしてそれは次の思考がやってきた時も依然としてそこにある。

次の思考がそこへやって来て、変化し続ける。しかし思考はその気づきを崩壊させたり、汚したりは決してしないだろう?

外の自然を見てごらん。自然は、その反対の極へと揺れ動く。しかし、自然には参照点がない。昼は夜と張り合うことはない、静寂はざわめきと戦わない、動きは静止と格闘しない。上げ潮は下げ潮とは争わない。

しかし私たちはいつも争っていて、それが恐れ、心配、ストレス、罪悪感、恥辱、後悔、意気消沈などをもたらし― すべての心理的苦悩は関係性が原因だが― それは私たちが自分だと思い込んでいる参照点に関係している。

「私」だけが恐れを抱く、「私」だけが心配をする。「私」だけが不幸や意気消沈、すなわち自己憐憫を抱く。つまり、「私」がすべての心理的苦悩の原因なのだ。その「私」というのは、自分自身に対して自分で抱いてきたイメージであり、そうあるべく努めてきたものだ。

心配、恐れや意気消沈はそれが原因だ。それがいわゆるカルマと言うもの― 因果(原因と結果)だ。もし、私が言うその「私」が、実体つまりはなんら独立したものではなく、全くのフィクションだとわかったら、原因なくして結果がありえるだろうか。

もしそれが、どこにも結びつく場所がないとしたら、結果はありえないとわかるだろう。それはただそのままあるだけだ。
すべての自分の問題の原因が、自分は分離した一個の存在であると信じていることにあることを、あなたははっきりと認識することができる。

さて私たちは、ここに分離した一個の存在がいるかどうかを調べてみる必要がある。私はくだらない考えの話をしているわけではない。というのも、そういう心理的な概念や、心理的なたわごとは、ここではもう昔に置き去りにしているからだ。

かって私はそういうことで手いっぱいだったが、ずいぶん前にそれはなくなり、私が言っていることを理解する人たちが現れた。
玉ねぎの皮むきのように、この感覚やあの感情というふうに働きかける必要はないし、今日はこの情動で明日はまた次などと働きかける必要もない。

それがしがみつく物が何もないとか、関連付けるものが何もないなどと確かめる必要もない。それはひとりでに自然に消えていく。

そしてそれは、この自己の中心がフィクションであるということを調べることによってできる。

今みなさんにお尋ねしますが、今みなさんは見ていますか?
そう、みなさんは今この瞬間見ていて、改めて見ることを始める必要はないとわかっています。

今朝起きたときに、あなたは見ることをわざわざ始める必要はありませんでした。見ることは即座に起こり、聞くことも同様でした。

あなたが目覚めた時、聞くことを始める必要はありませんでした。
聞くことは起こっていて、そのままずっと一日中続いています。

もしあなたが眠っている間に誰かが呼びかけたとしても、あなたは依然として聞いています。聞くことをわざわざ始めたわけではなく― 一日中ずっと続いている。
それはあたかもあなたの呼吸、心臓の鼓動やその他の生理機能のようなものだ。

見ることはあなたの目を通じて起きるが、目はあなたに、「私が見る」とは言わない。それは、それを通して見ることができる器官に過ぎない。
それから、あなたは思考を使って、「私は見る」という思考に変換する。

思考が「私は見る」と変換すると、あなたはその存在― 「私」が見る能力を持っていると信じてしまう。
物事を良いとか悪いとか判断することも、すべてこの架空の存在と関係する。

そのように見ることは目を通じて起こり、思考によって、「私は見る」と変換される。
聞くことは単に耳を通じて起こり、「私は聞く」という思考に変換される。

しかし、「私は見る」という思考が実際に見ることができるのか?思考が聞くことができるのか?

あなたが気づいているという思考が気づきなのか?あなたに思考がやって来る以前にあなたは気づいている。
あなたが選ぶという思考が実際に選ぶのか?

私たちが非常に重要だと考えている、この思考でできた存在には、見たり、聞いたり、考えたりする能力はない。
考えることは自然に起こり、思考によって変換される。その思考でできた存在はそれらのどれをする能力も持っておらず、実体や独立した性質を持つものではない。

すべては一つのエッセンス、一つのエネルギー、それと同一の認識する空が、すべての顕現を様式化し、形造り、具現化する。そこには驚くべき知性が宿っていて、あらゆる姿や形となって、常に現れている。

ニサルガダッタは言った。「自分ではない物のフリをするな、また、本当の自分を拒絶するな」
私たちは本当はあの純粋なる知性エネルギーだということを認識しないで、見せかけを本当だと信じて、分離した存在として振る舞っている。

エネルギーのパターンが具現化し、パターンがあちこちに現れ、パターンが消えて行くが、本質は変わらないままだ。その本質は崇高で遍在、それがあなただ。

さて今ここで話したことをちょっと調べてみよう。そしてこれは限られた人だけのものではなく、自分自身で本気で調べてみようという人たちのものだ。

誰もあなたにこれを与えてはくれない。あなたは自分でこれを調べなければならない。さあ今、このまま続けて、始めてください。

-Sailor Bob Adamson

セイラー・ボブ・アダムソン最終回はこちらから

セイラー・ボブ・アダムソンの記事を①から読む方はこちらから 

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