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2015年1月30日 (金)

セイラー・ボブ・アダムソン㉓・最終回(メルボルン)

2018.11.21追記 お知らせ

このブログ内のセイラー・ボブ・アダムソン関連の記事は加筆、修正を加え、以下のサイトに移記しましたので、そちらで読んでいただくようお願いします。

新ブログ

以前に「拓の世界一周旅日記」に書いたセイラーボブ関連の記事は、加筆、修正することなく、書いた当時のまま残しています。

ただ当時は、私のボブの教えに対する理解がまだ浅く、誤解を招く表現が多々あり、わかりずらいものになっています。
新しいブログに移記したものは、かなりわかりやすいものになっておりますので、すでに当サイトで読まれた方も、ぜひもう一度新しいブログで読んでいただくようお願いします。

そちらのブログでは、セイラー・ボブの教えをもっと詳しく書いていく予定ですので、よかったら時々読んでやってください。
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セイラー・ボブ・アダムソンの記事を①から読む方はこちらから 

セイラー・ボブ・アダムソンへのアクセス・概要・近況はこちらから

続編セイラー・ボブ・アダムソンふたたびを読む方はこちらから 

セイラー・ボブ・アダムソンの教えはこちらから

結びに代えて

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長い間、ボブに関するレポートを読んでいただきありがとうございました。明日からまた格調高い?旅ブログに戻ります。

私は、中村元さんの仏教関係の本とかも何冊か読んだことがありますが、仏教で言っていることすらよく理解していなかった。
今回、ボブを学ぶ中で、般若心経のあの部分が何を言っているのかわかったので書いておきます。

般若心経では、色即是空・空即是色と言っています。私の家は禅宗なので、葬儀や法事の時など、この文句を何百回と聞いて育ちました。

これをボブが引用した英語で言うと、"Form is emptiness, emptiness is form."(ボブが引用したのは後半の部分)。

直訳すると、「形は空、空は形」。

色即是空・空即是色をネットで解説しているサイトなどで調べると、色(しき)というのはすなわち(いろ)のことで、万物を指しています。
やさしい言葉になおすと、「万物はすなわち、これ空である。空はすなわち、これ万物である」。

驚きました。仏教で言っていることはそういうことだったんですね。日本人の私がボブを経由して「空」の本当の意味を知りました。
ボブの話は「禅」からの引用も多く、禅に対する理解も深まりました。

私は、"Out on a limb"という言葉が好きです。
これはシャリー・マクレーンの本の題名にもなっている言葉ですが、直訳すると、「枝の先」という意味で、もともとは聖書からの言葉だそうです。

その意味は、果実を手に入れるには危険をかえりみず、枝の先まで登って行って、手を延ばさないと手に入らないという意味です。
枝は折れて、地面に叩きつけられるかもしれない。でもそうしないと果実は手に入らない。

私は教えを学びたいと思った時は、いつも枝の先まで行って手を延ばすようにしてきました。そして今回、手の中に一つの果実が残りました。
この果実が、この先、花を咲かせるのか、枯れてしまうのかはわかりません。

ボブの話を聞きたいけれども、英語がわからないからと言われる人もいるでしょう。
でも、ボブがニサルガダッタから教えを学んだ時は通訳を介してだったそうです。

やみくもにボブに会いに行くことを推奨しているわけではありませんが、ボブは「私の話は頭ではなく、ハートで聞いてほしい」と言います。本人に直接会えば何かが変わるかもしれません。

また、私でよければ、できる範囲で回答させていただきます。質問・感想を気軽にコメント欄へお寄せください。

Out on a limb!

***

2015.4.2追記

追記ばかりしているので、全体のまとまりが悪く、いっそ全部書き直したいぐらいですが、時間とともに私の理解が深まる様子がわかって、それもいいのかなと思います。

今日もボブのミーティングに出ました。昨年11月14日にメルボルンにやってきて、途中一週間はビザの都合でニュージーランドへ行ったものの、それ以外は足かけ五か月にわたって、週三回ほぼ欠かさずボブのミーティングに出ています。4月14日のミーティングを最後にメルボルンを離れるので、あと数回はミーティングに出る。

ミーティングで何が話されているかというと、たいていは、ボブの教えを日常生活にどう生かすかというような内容。参加者が気づいたことや、思っていることを話して、他の人やボブが意見を言う。

個人的な悩みや物語を語る人はほとんどいない。というのも、そういうものはマインドが作り出したドラマにすぎないということをみんなよく理解しているから。

すべての不幸は自分の思考が作り出していて、自分でそれに囚われているにすぎない。それこそがボブの教えの神髄で、そのことだけ気づいて生きていけば十分ではないでしょうか。

***

2015.7.30追記

悟り、覚醒について。
ボブのもとを離れて三か月、悟りや覚醒とは、ということを時々考えます。

例えば、夢さえ見ないほどぐっすり眠った翌朝の目覚めた瞬間。私の脳裏に思考はなく、すっきりしています。でもそれはほんの一瞬で、すぐに、(今日はあれこれをしないといけない)とか、(あの悩み事はどうしようか)、という思考がやってきます。

思考がやって来るまでのほんの一瞬は、本当に幸せで、満たされていて明晰な状態です。それが覚醒であり悟りで、私たちの本性ではないでようか。

私たちは、それを失ったわけではないし、探さなければいけないわけでもない。それはいつもそこにある。
思考の後ろにそれはいつもある。
探し求める必要がないほど、私たちはそれをよく知っている。

でも、私たちは、それを体験したいと求めてあちこち捜し回る。そんな時ボブはこう言います。

"Full stop! What's wrong with right now? If you don't think about it."

***

2016.1.28から2016.2.15日まで再度セイラー・ボブを訪問しました。その時の様子や理解が深まった部分は、「セイラー・ボブ・アダムソンふたたび」に記載しました。

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コメント

「門徒もの知らず、法華骨なし、禅宗銭なし、浄土情なし。」というからかい文句があるそうですね。
拓さんは、「女性のオシリとお金」を追いかけた方が「急がば回れ」的に目標に到達しそうな気がしてきました。なんのことやら。錦織選手、残念でしたね。ニュージーランドには行かれるのですか?南半球の夏を満喫してください。

11日から、ニュージーランドに行くぞ~!

マスターと一時的なお別れですか。またビザがとれたら、メルボルンで一杯やってください。

たいらさんは来ないの?

ラームなんかは、たいらさんが来ると思ってるんだけど。

タクさんこそ、“最終回”とは名ばかりにちゃっかりメルボルンにまた来るんでしょ?

来ますよ。もちろんボブのところにも来ます。

でもボブのことを詳しくブログに書くことはもうないです。書きたいことは書いてしまったので。

ボブのネタ切れってやつですか。ニュージーランドでも楽しくやってください。それで、ボブの元を飛び立つのはいつですか?

2月11日です。

セイラー・ボブを検索してたどり着きました。
「ただそれだけ」の教えのエッセンスが大変わかりやすく、腑に落ちた気がします。
ブログでも勝手にリンクを記させて頂きました。
ありがとうございます。

お役にたてて光栄です。リンク、転載はご自由にやっていただいてかまいません。

初めまして!

セイラーボムアダムソンの著書をAMAZONで購入に、
この方の事をもう少し知りたいなと検索していたら、
こちらのHPにたどり着きました。
かなり詳しく書いてあり、大変感激した次第です。
高齢なので日本には来られないですよね・・・
その点非常に残念です

ボブさんも、ブログ主さんも、所謂「覚醒」「悟り」体験は
されていないようですが、それでもあれほどの理解に
たどりつけるのかと、驚きました。
何故ならば、私自身も「覚醒体験」が出来て、
初めて心からの理解に至るのだろう
(それまでは、結局どれだけこの種類の本を読んでも
わかったつもりにしかなれないのだろう)という思いだったからです。
多少諦めというか・・・。

そこで一つご質問なのですが、
この理解にたどり着いたあと、
その後の人生観はどのように変化されていますか?
旅のブログも5月までで止まっているので、
その後のブログ主の方の心境の変化などあれば、
お伺いしたいです。


人生観は大きく変わりました。

私の場合、瞑想したり、マスターを訪ねたり、本を読んだりと、悟りを得るための努力を今まで随分やってきたのですが、それが一切なくなりました。
丸善の精神世界のコーナーに行くことも、ネットで精神世界をうろつくこともなくなりました。

もうすでに自分は「それ」なんだと知ったので、大いなるくつろぎがあります。
ただ、劇的に性格や生活が変わったということはありません。

相変わらず不眠症の小心者ですし、毎日が楽しくてしょうがないなんてこともありません。
でも、以前ほどには将来に対して心配しなくなりました。

「私」などいないとわかれば、心配したり、悩んだりするのは意味のないこと。
「私」などという存在はどこにもおらず、「それ」の一表現に過ぎないのなら、あくせくしても無駄なんだとわかりました。
それならば、生きてることを楽しんだ方が得なんじゃないかという心境です。

私は、「自分が私だと思っている私は存在しない」ということを、(おそらくそれは本当なんだろうなあ。よくよく考えると、そうだよなあ)程度には思っていますが、ボブのように確信をもって断言するほどではありません。

でもそれでかまわないと思います。何か悟りのような完全な理解が起って、スカッとするということではないと思います。

私は、思考がないその一瞬、別の言い方をすると、思考の背後には常に「それ」があるということは体験的に知っています。それが何よりの証であり、それ以上の説明は要らないのではないでしょうか。

そしてそれは多少なりとも瞑想したことがある人なら誰でも体験済みのことで、特別な事ではないような気がします。


早々に返答いただきまして、ありがとうございます
(にもかかわらず、私の方は遅くなってしまい、申し訳ありません(>__<)

私は今だに精神世界の本を読みあさっていて、「わかった!」と思った数日後には
別の本に手を伸ばす・・といった感じです(;´・ω・)「それは分かってないからだろ!」
と、突っ込まれてしまいそうですが・・
非二元論、「わたし」はそもそも存在しない という事も、頭で分かっていながら・・
心からそれに納得できない自分がどうしても抜けません。
TAKUさんもブログ内でボブさんに何度も詰め寄っていましたが、
私も同じような心境です(;^ω^)「だって、自分は居ないっていったって、
外の世界は幻想だ って言ったって、現実に外はあるじゃないか!
目を閉じてもビルは建っているじゃないか!」
という感じで・・・。

私もTAKUさんのように、悟らずとも、精神世界の本を読まなくてもいいように
なりたいものです(/_;)


実は私もよくわかっていません。

ただ一つ言えることは、思考が無くても、見ているし、聞いています。
五感は、思考とは別に機能しています。

つまり、私が私だと思い込んでいる思考が物を見ているわけではないし、音を聞いているわけではないのです。だとすると、そこに見ている人がいるのではなく、思考がごちゃごちゃと解釈を付け加えているにすぎません。

その思考はやって来ては消える。それが実在するものだとは思えず、
そこには、「見ている、」「聞いている」という進行形の事実だけがあります。
それをボブはアウエアネス(知性エネルギー)の現れと言います。

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