セイラー・ボブ・アダムソン⑰(メルボルン)
今日は、今まで長々と書いてきたセイラー・ボブ・アダムソンの教えを私なりにまとめてみます。
これは私が勝手にまとめることであって、ボブは、これが彼の教えだなんて全く公認していません。
そもそもボブの教えの全体を、短いブログで紹介しようというのは無理です。もともとこのブログは旅ブログなんですから。
しかも、大胆にも今日はその教えを箇条書きにしようとしています。でもやっちゃいます。
①自分が自分だと思っている存在は実在しない。
②私たちが目にしている万物は幻影である。
③私も含めて、万物はそれ(純粋な知性エネルギー、純粋な気づき・意識、他には何もない一つのもの)である。
④時間は人間の思考の中にだけしか存在しない。
⑤死は存在しない。
⑥私たちはもうすでにそれであり、覚醒する人はどこにもいない。
⑦今この瞬間、すべては完全な状態にあり、何の問題もない。
⑧五感にまんべんなく注意を向け、今この瞬間を生きること。
***
もし、私たちが、ボブの言うように、自分という存在は実在せず、自己と他者は一つのものであるということが、本当に心から理解できたら、どうなるでしょうか。
関係性にまつわるすべての問題はすべて消え去ります。あなたが私を傷つけた。私が彼を裏切った。私より彼の方が金持ちだ。私はあの人より不幸だ。そういった問題はすべてなくなります。
自己と他者が一つであり、人間も動物も物も実は一つのものだと理解すれば、万物に対して、途方もない愛情が生まれるのではないでしょうか。
死は存在しないと理解すれば死の恐怖は消えます。たとえ恐怖が消えたとしても、病は人の常、癌にかかって死ぬことだってある。でも、自分が肉体でも思考でもなく、死は単にエネルギーの変化にすぎないと理解していれば、安らかに死を迎えることができます。
すべての問題は幻影の自己が勝手にしがみついている架空の参照点によるものだと理解すれば、悩むことすらばかばかしくなる。
私たちは、過去を悔やむ必要もなければ、未来に向けて不要な心配をする必要もなく、ただこの瞬間を起こるがままに任せて生きていけばいいだけです。
私は、この旅に出る時、なぜ自分が世界一周を始めるのかよくわかりませんでした。得体の知れない不安を感じながら、それほど世界が見たいわけでもないという気もしていました。
この旅も私が選択しているように見えても、実は「純粋なる知性エネルギー」が私を通じて表現しているにすぎず、私はただ生かされているにすぎません。
もし旅に出ていなかったら、もしまだ会社勤めをしていたら、きっとメルボルンに来ることはなかったでしょう。もし仮に来たとしても、短い休暇の旅では、ボブの教えの全体を理解することはなかったと思います。
ある時ギルバートが言いました。ボブの教えをちゃんと理解しているかどうかの基準は、困難や問題が起こった時、その参照点に捕らわれているかどうかでわかると。
私はボブの教えを学びましたが、自分が覚者であるという自覚は、今のところ全くありません。ボブの教えが本物かどうかも、今の時点でははっきりわかりません。
それは私が、この先どう生きるかでわかると思います。
五年後、十年後に、参照点をものともせず、死をも恐れぬ覚者になっているかどうかで、ボブの教えが本物かどうか、ボブの教えを正しく理解しているかどうかがわかると思います。(こんなことを書くとボブに叱られます。時間は存在しない、それは今だと。)
長い間、私の説明に付き合っていただきありがとうございました。
明日からはいよいよ本人登場で、ボブ自身の講和の翻訳を掲載します。
まだボブの話は一週間ほど続きますが、私の説明は今日で終わりましたので、ご自由にコメントしてください。
2015.3.18追記
ボブの教えの核となる部分は、「私が私だと思っている私は実在しない」ということだと思います。それを自分で調べて理解すれば、他のことは自然に起こってくる。
エンライトメントする私もいないし、万物はただ一つのもので、すべてはその現れであるというような理解は、二次的なものとして、自然に起こってくる。
2015.3.24追記
ボブの教えを頭(思考、マインド)で理解しようというのは無理です。ボブは常々、"Answer is not in the maind."(答えはマインドの中にはない)と言っています。頭で理解しなくて、どうやって理解するんだろうと最初の頃は思っていました。
ボブは"Ring the bell"(心に響いたかな?)という風に聞く。ボブの話は、真理そのものではなく、ポインター(指し示すもの)でしかない。そのポインターのどれかが、心のベルを鳴らし、心に響いて、ああ、それは本当だな、という理解が起きれば理解したということ。
ボブ本人も、周りの人も誰も、万物が一つのもので、それが現象となって現れ出ているということを、論理的に説明できる人はいない。ボブの指し示すポインターのどれかが心に響いて、確信となった時、理解したということ。
そして一つ大切なことは「私は理解した。あなたは理解していないゲーム」をしないこと。わからないならわからないで、何の不都合も違いもない。どちらもエンライトメントしていることに変わりはない。わかったフリをしなくていいし、わかったからと言って、私はわかった、あいつはわかっていないなどと言う必要もない。
ボブはそのゲームをひどく嫌う。わかったから偉いわけではないし、わからないからといってダメな人というわけではない。ボブも私たちも、同じように、もうそれなのだと言う。
ボブの教えは、志のある人には誰にでも容易に理解できる教えで、特定の選ばれた人にしか理解できないような難解なものではなく、シンプルなもの。理解すると言っても、それは論理的な理解ではなく、あくまで感覚的なもの。ボブの教えが必要な人なら誰でも必ず心に響く瞬間がやってくる。頭で理屈をこねくり回して理解する必要はない。
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インドから大切なものを持ち帰る話って何かあったよなー「西遊記」だ。と思いだしてからずっと「たしか日本のお経の基礎はほとんど全部その翻訳だよな。」「つまりボブ先生の教えも日本の方が専門家も、そうではなくてもその考え方に触れる機会が多いはずだよな。」「それなのに拓さんは一度訳する手間をかけてもボブ先生の教えは心に響くんだな。」「なぜだろう?ボブ先生が大好きなんだな。」
しかし人間は「嫌い」な理由は説明できるけれど、「好き」な理由は説明できないんだな。
子供の頃「〇〇さんが好きなら死ねるか?」なんてことを言ったりしたけれど、拓さんの場合、ボブ先生が「大腸菌はありまーす!日本の製紙技術は世界一!」とおっしゃっても紙を使わないだろうな。とか。「店は客が育てる。」というけど、集まる人間で評価されがちなので、ボブ先生の周りはどういう人が集まるんだろう。と、そんなことばかり気になります。いつかボブ先生への愛を熱く語って欲しいです。
お返事はいいです。錦織選手、良かったですね!
投稿: ス | 2015年1月25日 (日) 08時17分
錦織とマスターを一緒にされるのは心外ですね。
投稿: たいら | 2015年1月25日 (日) 10時50分
いやあ、テニスがこんなに興奮するものとは思わなかった。
まあ、それもこれもマスターのいるメルボルンに来たからやね。
テニスを見て興奮した翌日はマスターに会って落ち着く。これやね。
これで温泉があると最高なんやけど。
投稿: TAKU | 2015年1月25日 (日) 11時45分
自分が覚者であるという自覚は、今のところ全くありません・・・・・
五年後、十年後に、参照点をものともせず、死をも恐れぬ覚者になっているかどうかで・・・・・
覚者というのは覚醒した人という意味ですよね?
悟りはない、覚醒はない、われわれはすでにそれ、
と言われていた内容と矛盾すると思うのですが
また何かになる別の状態があるのでしょうか?
投稿: ぺーぺー | 2015年1月25日 (日) 13時09分
私は、「覚者」という言葉を、「真理を体得した者」(デジタル大辞泉)という意味で使いました。
ただ、広辞苑なんかだと。「自ら覚り(さとり)、他者も覚らせる者」という意味もあるようですので、誤解を招く表現だったかもしれません。
ここは、「真理を体得した者」と読み替えてください。
繰り返しになりますが、「覚醒する」ということはありません。われわれはもうすでにそれです。何か別の状態があるということもありません。気づいていようがいまいが、もうすでにそれです。
ボブの言っていることを、どのレベルで理解するのかは個人の問題になりますが、特別な理解があるわけではなく、普通の理解です。
投稿: TAKU | 2015年1月25日 (日) 13時29分