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2015年1月28日 (水)

セイラー・ボブ・アダムソン㉑(メルボルン)

The Spiel ④

ちょっと思考を止めて、何を話すことができるか、思考無しで何ができるか試してみるといい。
その間、自分は消えたりバラバラになったりはしないし、呼吸が止まったり、心臓が止まったりもしないのがわかるだろう。

機能は引き続き働き続けている― そこでは概念化は止まっている。仏教徒はそれを一つのセンテンスで表す。彼らは、大いなる完成は概念化されない意識だと言う。

思考は一瞬停止したあとに、また別の思考がやってくるが、それにもかかわらず、あなたは一瞥を得る。

思考が停止したとき、あなたはばらばらになったり、消滅したりはしない― 実在としてのあなたは思考以前に存在する。そこには、生そのもの、生のエッセンスがあり、思考が停止している間もそこにある。そしてそれは次の思考がやってきた時も依然としてそこにある。

次の思考がそこへやって来て、変化し続ける。しかし思考はその気づきを崩壊させたり、汚したりは決してしないだろう?

外の自然を見てごらん。自然は、その反対の極へと揺れ動く。しかし、自然には参照点がない。昼は夜と張り合うことはない、静寂はざわめきと戦わない、動きは静止と格闘しない。上げ潮は下げ潮とは争わない。

しかし私たちはいつも争っていて、それが恐れ、心配、ストレス、罪悪感、恥辱、後悔、意気消沈などをもたらし― すべての心理的苦悩は関係性が原因だが― それは私たちが自分だと思い込んでいる参照点に関係している。

「私」だけが恐れを抱く、「私」だけが心配をする。「私」だけが不幸や意気消沈、すなわち自己憐憫を抱く。つまり、「私」がすべての心理的苦悩の原因なのだ。その「私」というのは、自分自身に対して自分で抱いてきたイメージであり、そうあるべく努めてきたものだ。

心配、恐れや意気消沈はそれが原因だ。それがいわゆるカルマと言うもの― 因果(原因と結果)だ。もし、私が言うその「私」が、実体つまりはなんら独立したものではなく、全くのフィクションだとわかったら、原因なくして結果がありえるだろうか。

もしそれが、どこにも結びつく場所がないとしたら、結果はありえないとわかるだろう。それはただそのままあるだけだ。
すべての自分の問題の原因が、自分は分離した一個の存在であると信じていることにあることを、あなたははっきりと認識することができる。

さて私たちは、ここに分離した一個の存在がいるかどうかを調べてみる必要がある。私はくだらない考えの話をしているわけではない。というのも、そういう心理的な概念や、心理的なたわごとは、ここではもう昔に置き去りにしているからだ。

かって私はそういうことで手いっぱいだったが、ずいぶん前にそれはなくなり、私が言っていることを理解する人たちが現れた。
玉ねぎの皮むきのように、この感覚やあの感情というふうに働きかける必要はないし、今日はこの情動で明日はまた次などと働きかける必要もない。

それがしがみつく物が何もないとか、関連付けるものが何もないなどと確かめる必要もない。それはひとりでに自然に消えていく。

そしてそれは、この自己の中心がフィクションであるということを調べることによってできる。

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