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2016年2月

2016年2月29日 (月)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 8 (最終回)

2018.11.21追記 

 

お知らせ

 

このブログ内のセイラー・ボブ・アダムソン関連の記事は加筆、修正を加え、以下のサイトに移記しましたので、そこでで読んでいただくようお願いします。

 

新ブログ

 

 

 

 

 

以前に「拓の世界一周旅日記」に書いたセイラーボブ関連の記事は、加筆、修正することなく、書いた当時のまま残しています。

 

 

 

 

ただ当時は、私のボブの教えに対する理解がまだ浅く、誤解を招く表現が多々あり、わかりずらいものになっています。

 

新しいブログに移記したものは、かなりわかりやすいものになっておりますので、すでに当サイトで読まれた方も、ぜひもう一度新しいブログで読んでいただくようお願いします。

 

 

 

 

 

そちらのブログでは、セイラー・ボブの教えをもっと詳しく書いていく予定ですので、よかったら時々読んでやってください。

 

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セイラー・ボブ・アダムソンへのアクセス・概要・近況はこちらから

 

 

 

「Sailor Bob Adamson Inter-view・ギルバート・シュルツ編纂」から抜粋

 

筆者注:以下の発言はすべてセイラー・ボブ・アダムソンの発言です。原文には前後に質問者の質問や応答がありますが、それを載せると長くなるうえに、かえって焦点がボケてしまってわかりにくくなるので割愛。
ボブの発言部分については省略・改変することなく、原文に忠実に翻訳掲載しました。

 

p3
「まず最初に、あなたは体でもなければマインドでもない。あなたは、アウエアネス、意識、注意深さ、目覚めている状態と言われている生のエッセンスそのもの、すなわち知性エネルギーであり、それがこの森羅万象を機能させている。それはたった一つの実在。」

 

p3
「ちょっと考えてごらん。あなたはアウエアネス(意識・気づき)を掴むことができるだろうか?それを形にできるだろうか?形態や大きさ、場所を与えることができるだろうか?それは空間のようなものであり、物ではない。それにはパターンや形は無く、中心も周辺もない」

 

p4
「仏教で使われる別の言葉では、wakefulness(目覚めている状態)と彼らは呼ぶ。wakefulness は アウエアネス(意識・気づき)によく似ている。あなたは朝目を覚まし、そして今も起きている。

そして今朝あなたが目を覚ましてから、すべての物事が起きた。それは、何の中で起こったのか?それは、目覚めていることの中で起こったのではないのか?しかし、その目覚めていることとは一体なんだろう?そして、その目覚めていることを手に入れるために、あなたは何かをしなければならなかっただろうか?」

p4
「アウエアネスという言葉を聞いたとたんに、たいていの人はアウエアネスを手に入れようと捜し始めるが、捜しても無駄だ。人々はアウエアネスが何なのかを考え始める。そして人々はそれに対して、それはこうあるべきだという概念を抱く。

しかし、(目覚めている状態)という言葉を使うとき、目を覚ましていることに対して、あなたは何をしなければならないというのか?あなたは自分が眠ってはいないことを知っている。それなら、あなたはそれを捜す必要はなく、何もする必要などないのではないか?あなたが眠っていないのなら、起きているに違いない。

それをそのままにしておきなさい。それをいかなる方法でも、変えたり、正したり修正したり、また捜し求めたりしないこと。それは昼であろうと夜であろうと、どんな活動がなされていようが、すべてはその中で起こる」

 

p5
「それは常に明白で明らかなこと。はっきりしているにもかかわらず、気づない。それゆえニサルガダッタや、たいていのいにしえの教典ではこう説く、(我々の問題は無知からくる)と。それは愚かだと言っているのではなく、知らないふりをしているのだということ。我々は、自分たちの本質を無視して、その内容物、その中で起こっているいくつかの活動に焦点をあて、この部分は私、残りの部分は私じゃない、などと常に選んでいる」

p41
筆者注:質問者の「日常の普通のアウエアネス(意識・気づき)ではなく、何かもっと深淵ですばらしい何かが起こることを待ち続けている私たちに向って何か言ってください」という質問に答えて。

「それで今あなたはどうだ?起きて(awake:目を覚まして)いるのか?」

 

「それでその目覚めている状態に、あなたは何をしなければならないと言うのか?あなたはそれを捜さなくてはいけないのか?あなたは自分が眠ってはいないということを理解するだけでいい。あなたは確かに眠ってはいない。そして眠っていないのなら目覚めているに違いない。

目覚めている(awake)を別の言葉で言うとどうなる?目覚めている(awake)はアウエアネス(awareness)だろ?」

「それが目覚めている状態、すなわちアウエアネスだ。フル・ストップ!(ピリオド)。あなたはそれに何を付け加えられるだろう?あなたはそれから何を取り去ることができるだろう?それから、どんな深淵なことを得る必要があるだろうか?」

p42
「その他に何を求めているのか?あなたは精神の高揚や下降が欲しいのか?もしそれが得られたとして、それがいつまで続くと言うのか?何かすばらしい体験?たぶんあなたも人生の中で、途方もなくすばらしい経験をしたことが何度かあるだろう。それを思い出してみてほしい。それが長く続いたかを?」

p43
「あなたはそれを何と呼ぶ。普通のアウエアネス(意識・気づき)だ。普通の、ただの日常の普通のアウエアネスだ。

 

さて今、すばらしい、偉大な経験をしたとする。すばらしい一瞥、ビジョンやあらゆる種類のもの。また、極上のエクスタシーを体験して、あなたはまたそれを捜し求める。もし、その状態が一週間続いたらどうなる。一ヶ月、一年。そしたらどうなる?」

「それが普通の状態になる。普通のありふれた日常の状態となる。」

 

「あなたはまた何かもっと良いものを捜し始めるだろう。というのも、この目覚めている状態がいつもの状態であるために、それがありふれた普通のものに見えてしまうからだ。とても普通の状態に。しかし、その本質を見て欲しい。くつろいで。自分の本当の姿を知ること。それがいわゆる再認識(re-cognize)というものだ。

あなたはすでに知っていて(cognized)、何度も何度も認識しいているが、思考という一団の雲に覆い隠されてうわべ上は認識できなくなっている。しかし、それを再認識しなさい。そうすれば、雲が無ければ太陽が燦然と輝いていることを認識できるだろう。

この例えを利用しなさい。そして太陽は暖かく、明るく、輝いていて、とても幸せだ。その本質はあなたも同じだ。明晰で空、暖かく、そう言いたければ愛情に満ちていると言ってもいい。」

 

 

 

 

***

 

以上で抜粋翻訳終わり。

 

セイラー・ボブが説くのは非二元・他に何もない一つのもの。一方で私たちが見ているのは分離だらけの二元性の世界。世界はそのように現れるしかないのだとボブは言います。

セイラー・ボブは、その見ることも理解することもできないものを、様々なポインターを使って私たちに指し示そうとしています。

 

ボブの教えが真実だと思われた方、おとぎ話のたわごとだと思われた方、お前の説明ではよくわからないと思われた方、言っていることはなんとなくわかるけど・・・。感想は様々だと思います。

 

でも、こうだと決めつけて、ラベルを貼ってしまうことのないようお願いします。
よくわからないままにしておけば、いつか何かの瞬間に卵が孵化する瞬間があるかもしれません。
また逆に、すっかり忘れて思い出すこともないのかもしれません。
何かのラベルを貼りつけずに、どうぞそのまま自然に起こるに任せておいてください。

 

「セイラー・ボブ・アダムソン ふたたび」を最初から読む方はこちらから

「セイラー・ボブ・アダムソン」(前回の訪問時のブログ)を読む方はこちらから

 

2018年2月現在、Sabine の facebookで、不定期ではありますが、ボブのミーティングをライブ中継しています

 

セイラー・ボブ・アダムソンの教えはこちらから

 

 

 

 

 

 

2016年2月28日 (日)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 7

ボブの教えの一番大切なところ

What's wrong with right now? if you don't think about it.(今そのことを考えなかったら何も問題ないじゃないか)

これはギルバート・シュルツがボブのミーティングの録音から編纂した本の題名です。この本がもとでボブのことが多くの人に知られるようになりました。

この「What's wrong with right now if you don't think about it.」という言葉は、ボブがよく使うポインター(ヒント)の一つですが、なぜギルバート・シュルツが、数あるボブのポインターの中からこの言葉を選んで題名にしたかというと、これがボブの教えの中でも、特に大切なところと考えているからではないでしょうか。

私も、この言葉がボブの教えの核だと思っています。
この言葉の意味するところは、私たちの問題はすべて、自分の思考が作り出しているという意味です。

何か問題が起こったら、ボブの言葉を思い出してください。自分など存在しない、誰もいないのだから問題など起こりようがないと理解するのが一番ですが、そこまでの理解に至っていなくても、起こっている問題は何なのか、それは単なる思い込みではないかと疑ってみてください。

愛する人が去ってしまった。もうあの人の愛がえられないと涙にくれている現実を前にして、傷つく「私」は実在しないのだから悲しむ必要はないと思っても、なかなか受け入れがたいことかもしれません。

いくらそれは実在ではなく概念だから悲しむ必要はないと言っても、悲しんでいる当人には受け入れがたいことでしょう。

でも、考え方を少し変えるだけで、状況の見え方は全然違ってきます。
自分が悲しんでいるもととなっている思考は何なのかを見つめてみたらどうでしょう。

愛する人が去ったのは、もっと大切な人に出会うためだという思考が持てるなら、また、今は恋愛ではなく、もっと大切な何かに打ち込むべきだと天が合図してくれているのだと考えられるなら、泣いている暇なんてないはずです。

問題を作り出しているのは、思考からくる概念です。そしてそれに巻き込まれ、しがみついているのは、そこにいるはずのないあなたです。それに気づくことこそがセーラー・ボブの教えの神髄だと思います。

セーラー・ボブの教えは、ある時何かが起こって、何かが変わるという教えではありません。エンライトメントも、特別な理解もありません。セイラー・ボブの教えは、学んで理解するだけではだめで、実践しないと意味がありません。

セイラー・ボブのまわりには、何年も通っている常連がたくさんいますが、彼らは皆、セイラー・ボブの教えをよく理解しているし、精神世界にも精通した人たちです。

ある時6人でカフェで話をしていたら、全員が過去にインドのどこかのアシュラムで瞑想したことがある人たちで、オタクばっかりだと笑ったことがあります。
彼らは様々な方法で何年も瞑想したり、探求してきた人ばかりです。

その彼らが、なぜ長年ボブのところへ通っているかというと、ボブの教えを日々の生活の中で実践しようとしているからです。
ボブは言います。空気が透明なのは皆知ってはいるが、空は青く見える。青い海の水をバケツ一杯汲んで来いと言っても、海の水が実際は青くないことはみんな知っている。
いくら教えを理解しても、「私」は現れるし、問題も次々と起こってくるように見える。

セイラー・ボブがインドのニサルガダッタ・マハラジのもとで教えを学んで帰ったあとでも、経営していた農場が流されたり、病気に苦しんだりと様々な問題がボブに起こりました。
そんな時ボブは、マハラジの教えを思い出し、起こっていることは単なる見せかけの現象で、そこには何もないんだということを繰り返し思い出したと「ただそれだけ」に出てきます。

また、ボブの師であるニサルガダッタ・マハラジは、「私が死んだあとに娘たちはちゃんと生活していけるだろうか」と絶えず心配していたと「Living Reality」に出てきます。

生きている以上、問題は避けられないし、心配の種は尽きません。それが私たちが身を置く二元性の世界なのです。
ボブの教えは、ある時エンライトメントが起こって恍惚感の中で暮らせるという教えではないのです。

ボブはlife essence という言葉を使います。これもアウエアネスのポインター。体に目や脳があっても、そこにlife essenceがなければ、あなたは見ることも聞くこともできない、というふうに言います。要するに、アウエアネス・知性エネルギーがなければ、体は機能しないよと言っています。なぜなら、私たちはその現れだからです。

ボブはまた、"Live your livingness."と言います。livingnessという言葉も、ボブがよく使うポインターの一つです。あえて日本語に訳すとすれば、「生き生きとした命」。生き生きとした命を生きなさいという意味です。

ボブの教えは、どうせ私は実在しないし、世界は幻なんだからと、厭世的にしらけて生きろという教えではありません。
むしろその逆で、あなたが思考にとらわれることなく、livingness に身を任せて生きるなら、もっともっと可能性が広がるよと教えています。

努力が必要な時には自然に努力が起こります。考えなくてはいけない時には自然に思考がやってきます。
問題や思考に縛られて動けなくなったら、心配するのをやめて、五感を開いて livingness に身を任せてください。内在するインテリジェンスが自然にあなたを別の展開へと運んでいきます。

あなたは自分で仕事やパートナーを選んだと思っているかもしれませんが、そもそも、その選択肢を用意したのは誰ですか?

あなたが生まれてすぐ、まだ目も開かない時に、どうやってあなたは母親の乳房を捜しだして吸ったのですか?

あなたの体や両親、境遇を、あなたは自分で選んで生まれてきたのですか?

あなたが自分で何かをしたことなど一度もなかった。好むと好まざるとにかかわらず、物事は自然に起こり、自然に変化してゆく。思い煩うことは何もないのです。

You are being lived. あなたは生かされている。

***

以上で私の説明は終わりです。でも、やはり最後はボブに登場してもらわないといけません。そこで明日は最終回として、ボブの本「Sailor Bob Adamson Inter-view」からの抜粋翻訳を結びとして掲載します。

私は、前回日本に帰ってから、ボブとギルバートの以下の本を何度も読みました。

ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Laery編纂

What is Wrong With Right Now? if you don't think about it!」Gilbert・Schultz編纂・ebook

「Beyond Words Beyond mind 」Gilbert Schultz編纂・booklet

「Sailor Bob Adamson Inter-view」booklet

「Who do you think you are」Gilbert Schultz著(内容はギルバートの著作)

「Everything is Clear & Obvious」Gilbert Schultz著(内容はギルバートの著作)

中でも特に参考になったのは「What's wrong with right now? if you don't think about it.」と「Sailor Bob Adamson Inter-view」ですが、ギルバート・シュルツの二冊の本も助けになりました。

また、今回メルボルンに行くまでは、ボブ以外のアドヴァイタ関連には手を出さないと決めていたので、ギルバート・シュルツが主催するUrban Guru Cafeというサイトは聞いたことがありませんでした。

このサイトは、ギルバートが本物だと認めたアドヴァイタ関連の人々にインタビューしたものやスピーチをPodcastで聞けるというサイトです。

ボブはもちろん、ボブの師であるニサルガダッタ・マハラジを始め、ラメッシ・バルセカール、キャサリン・ハーディング(ダグラス・ハーディングの奥さん)、J・クリシュナムルティ、UGクリシュナムルティ、トニー・パーソンズ、レオ・ハートン、グレッグ・グッドなどが登場します。

人に勧められて、今回
メルボルンにいる間に、このサイトを全部聞きましたが、すばらしいものが多い。

このサイトはボブの教えを理解、確認するのに大いに役立ちました。言い方や説き方は全く違いますが、ボブと同じことをそれぞれの人のやり方と言い回しで説いています。

ボブよりはきれいな英語を話す人ばかりですので、英語で聞いてみようという方はぜひ聞いてみてください。

また、以下のサイト(You-Tube)で最新のボブのミーティングを配信しています。ボブの英語は手ごわいですが、中に英語字幕付きのものもあるので、英語で直接聞きたい人はこちらで。

Sabineのサイト。

明日に続く。

2016年2月27日 (土)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 6

概念のラベル

ボブは、
「概念というラベルを剥がしたら、何も見えない」
「世界はあなたの意識の中に現れ、概念のラベルが貼り付いている」
という言い方をします。

私たちが経験的にあれこれを学んだ過程で、すべての物や出来事に概念のラベルを貼っていて、それが私たちの世界を構成しているということは、昨日までに書きました。概念のラベル貼りということがわかりずらいと思いますので、もう少し説明します。

私がメルボルンで泊まっていたのは、YHAメルボルンというユースホステルです。一階には大きな食堂があって、夜になると、世界中からやって来た若者たちが、ビール片手に大きな声で話をしています。

たいてい私は隅の方に座って一人でビールを飲みます。私は日本語と英語はわかるのですが、その他の言語はまったくわかりません。
日本語も英語も聞こえない時、そこにはいろんな国の言語が飛び交っています。

あれはフランス語かな、中国語もあるな程度のことはわかるのですが、基本的には雑音にしか聞こえません。みんな一斉に大きな声で喋るので、かなりの雑音です。音とは何かというと、ヴァイブレーションであり、エネルギーです。

そこに誰かが突然日本語で「ねえ、聞いてよ。今日、ヤラパークでいい部屋見つけたんだけど、大家に交渉してもまけてくれないのよ」と誰かが言ったとします。

すると突然、私の脳裏には、ワーキングホリデーでメルボルンにやって来た女の子が今日ヤラパークへ部屋探しに行って、良い部屋を見つけたのに大家が家賃を負けてくれなかったからダメだったんだという世界が広がります。

もともと雑音でしかない音(日本語)に、私は経験的に「家」「大家」「交渉」というラベル(概念)を貼りつけているために、そこに世界が現れました。

また別の例をあげるなら、だまし絵。ここに魔女が隠れているよ、と教えてもらうと、その瞬間からおじいさんのヒゲが魔女に見えてしまうやつ。

ここに魔女がいるよと学習して概念のラベルを貼ると、それからは何度見てもおじいさんのヒゲには見えず、魔女に見えてしまう。
形や色というのは、後天的に学んだものです。そのラベルを剥がしてしまったら、魔女もおじいさんも消えてしまい、何が書いてあるのかわからない。

もっと極端なことを言えば、焦点を合わせる作業さえも後天的に学んだものです。空、雲、ビル、お母さんの顔との距離感も後天的に学んでラベルを貼ったものなので、そのラベルを全部剥がしたら、全部ぼやけてしまって、何が何だかわからない世界が現れる。

例えば、メルボルンのエリザベス通りを歩いているとします。
私は成長する過程で、「歩道」「ビル」「車道」「車」「歩行者」という物事を学び、そこに概念を貼りつけています。

その概念があるために、「ビル」にぶつからないように、「歩行者」を避けながら「歩道」の上を歩きます。もしうっかり「車道」に出て「車」にぶつかると「ケガ」をする事も知っています。
もし、そのラベルを全部剥がしてしまったら、何が起きるでしょうか。

遠近感も経験的に学んだものですから、空とビルの区別や、車やトラムが何なのかもわからなくなり、歩道と車道の区別は消え、ビルも車も判別がつかなくなります。
おそらくその時見えるのは、ぼんやりとした色彩だけの世界が広がっているはずです。

ぼんやりとした色彩の世界の言い方を変えると、エネルギーだけが広がっている世界。
そしてその色彩が現れているのは、あなたの意識(consciousness)の中です。
あなたの意識の中に広がるエネルギー現象に概念のラベルを貼って定義して、世界を出現させているのはあなたです。

感情や思考など、目に見えないものにも同様のラベルが貼られています。ある時好きな人が視界から消えて、何か不安定な感情になって泣いた。その感情に「悲しい」というラベルが貼られます。

次にまた誰か大好きな人に去られると、「悲しい」という感情が自動的に起こってきて、その感情にとらわれてしまいます。ラベルなど貼らなければ、すぐにどこかへ消えてしまう一過性の感情にすぎないのに。

「あなた」「私」「建物」「椅子」「約束」「悲しい」、すべては概念です。そこに実際にあるのは、エネルギーだけなのです。

「あなた」が「私」を捨てた。「彼」が「私」を傷つけた。これらは単なるエネルギー現象で、実際には何も起こっていない空間に、あなたが貼りつけたラベル(概念)です。

そしてそれはどこで起こっているのか。あなたの意識の中です。
もしあなたがこのことに気づいて、すべての不幸や問題は、あなたが貼りつけた概念(ラベル)でしかないと気づいたなら、そこに問題は何もありません。

明日につづく。

2016年2月26日 (金)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 5

もう少し具体的に

「私はいない」

「万物は一つのもの」

「時間は存在しない」

「何も起こっていない」

「死は存在しない」

こういった言い回しを、そのまま直接使ってしまうと、誤解が生じやすくなる。前回訪問時のブログで私は、こういった直接的な表現を不用意に多用してしまい、わかりずらくしてしまったかもしれないと反省しています。

ボブの定義では、実在(reality)とは永遠不変のもの。顕現(appearance)とは、見せかけのもので、変化していくもの。

私たちが目にしている世界は顕現であり、永遠不変ではない二元性の世界。その世界には、物質としての私の肉体もあなたの肉体も存在するし、山も海も椅子も壁も存在する。それは当たり前のこと。

これらのものは、永遠不変ではない。肉体は死ぬし、「私」という思考も死ぬ。山も海も椅子も壁もやがては姿を変えていく。それらの物は実在ではない。実在ではないから「私はいない」「何も起こっていない」という言い回しになる。

私たちが見ている世界は二元性の世界です。私とあなた、昼と夜、見る人と見られる物。それはそのように現れるしかありません。それが無いと言っているわけではなく、それは実在(reality)ではなく、顕現(appearance 見せかけ)だと言っているのです。

「万物は一つ」という言い回しは、実在のレベルの話であり、見せかけの世界の話ではありません。顕現(見せかけ)の世界では万物は一つではなく、バラバラに存在する。あなたもいるし、私もいる。

そのバラバラに見える物たちも、顕現として現れているもととなる実在としては分離のない一つのものだと言っているだけのことです。

「時間は存在しない」という言い回しも、もっと正確に言うなら、「時間という概念は、思考の中にしか存在しない」という意味であり、昨日の出来事が全部なかったという意味ではない。

ところが、「昨日の出来事」も、もっと深いレベルで使われた場合は、「何も起きてなかった」という言い回しになる。私たちは、現象の世界で起こっていることに、さまざまなラベルを貼る。そこに実在としてあるのはエネルギー現象だけ。それにラベルを貼っているにすぎない。

「死は存在しない」という言い回しも、顕現として現れた肉体は当然死ぬし、「私」という思考も死ぬ。それは当たり前。ボブが「死は存在しない」と言っているのは、肉体でも思考でもない実在としての「私」のことを言っている。

実在という点から見れば、そこにあるのはすべて単なるエネルギー現象であり、それをわれわれの思考が勝手に、「私」が「あなた」を「傷つけた」とか、「イラク」で「戦闘」が「起こった」というふうにラベル(概念)を貼っているだけのこと。実在の点から見ればそれは単なるエネルギー現象であり、「何も起こっていない」ということになる。

もちろん、物理的に、私の肉体は存在するし、あなたの肉体も存在する。それらは一つではないし、別々に存在する。当たり前の話ですが、それがないと言っているわけではない。
イラクで戦闘は起こっていて、それが起こってないとは言っていない。

ただそれらは、人間が勝手に貼りつけた概念で解釈しているだけのこと。実在(reality)いう点から見れば、それは単なるエネルギー現象で、何も存在せず、何も起こっていない。

ボブの定義では、実在とは永遠不変のもの。そういう意味において、肉体も物質も実在ではない。人も物もすべての物もやがては、姿を変え、変化してゆく。
肉体は死に、山もビルもやがては姿を変えていく。

私たちの本質は肉体ではない。だから「死などない」という言い回しになるが、肉体は死ぬ。

ボブは言う。
「あなたは永遠不変の実在だ。生まれてから、変化していないものは何か。あなたの生まれた時の細胞は変化し、すべて生まれ変わった。それはあなたではない。思考はどうか。すべての思考はやってきては去っていく。それはあなたではない。」

では、生まれてから今まで変化せずにあるものとは何か。その変化しないものこそがあなただという。生まれてこのかた、ずっと変わらずにあるものとは何か。
それは、あなたの意識(consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)。

あなたが見た景色、思考、音などは、絶えず変化してどこかへ行った。しかし、あなたの意識(consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は今も変わらずにある。

あなたの意識(consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は、アウエアネスを表すポンター(ヒント)。それは個人のものではなく、普遍的アウエアネスの一部。

あなたの子供ころから、世界を認識してきた意識(アウエアネス)だけが変化せず、今もこの瞬間もここにある。それが本当のあなたであり、その内容物として現れる現象はあなたではない。

ボブは、私たちはアウエアネス(意識・気づき)そのものだと言う。それを「知性エネルギー」と言う時もあれば「認識する空」と言う時もある。思考や物質がエネルギー現象となって現れるスペースだという時もあるし、惑星を動かしたり、鼓動や呼吸をつかさどるエネルギーだという時もある。

どの表現も別の側面を表しているにすぎず同じもの。そしてそれは他に何もない一つのものであり、万物は一つのものだと言っている。ボブは使いませんが、神という言葉がわかりやすければそれでもいい。


ボブが、万物は一つのものということを説明する時は、クオーク(微粒子)の説明をする時があると前回のブログで書きました。

物質は実はスカスカの空間で、その空間を見て勝手にラベル(概念)を貼りつけているだけだという説明で納得できる人はそれでいいと思います。

最近よく耳にするニュートリノもクオークの一つなのだそうですが、そのクオークが飛び交う空間を見て、概念のラベルを貼りつけているのは我々の意識(consciousness)だという説明で納得できる人はそれでいい。ボブのところへ来る人の多くはこの説明で納得しています。

その意識(consciousness)はどこに現れるかといえば、アウエアネス。そのアウエアネスは一つのもの。万物はその中に現れるものという意味で、一つのもの。

またボブは、このことを説明するのに鏡の例えをよく使う。鏡がアウエアネスであり、あなたの本質。鏡に反射して映る世界が万物。反射はいろいろなものを映し出す。あなた、私、椅子、花瓶。ありとあらゆるものを映し出すが、鏡の中の反射という意味では一つのもの。アウエアネス(鏡)無くして反射(万物)は存在しえない。

鏡の中に映った「私」は、自分は個人的な存在で、そこから世界を認識していると思っている。でも、「私」も「あなた」も鏡に映った全体の一部。あなたが世界を認識しているのではなく、鏡という全体の一部にすぎない。

またボブは、海の例えを使う時もある。海がアウエアネスで、そこに起こった小さな波が「あなた」や「私」。「あなた」や「私」は海という一つの存在(アウエアネス)から分離した個人だと考えているが、実は海(アウエアネス)。全体の一部で同じものだということに気づかない。

ボブがどんな説明をしようと、それはポインター(ヒント)にすぎない。なぜならそれはマインドでは理解できないものだから。「アウエアネス」という言葉も「知性エネルギー」という言葉も「それ」そのものではない。それはマインドでは理解できないもの。

マインドで理解できないなら、まやかしではないかと言う前に自分で調べてみてほしい。
ボブは、「基本は自分がいるかいないかを自分で調べることだ」と言っている。

ニサルガダッタ・マハラジはI am.「私はある」という言葉から、自分の実在(本質)に気づくのに三年を要した。ところが、ボブのガイダンスに従えばそれほど時間はかからない。「私はいない」という答えがわかっているのだから、答案用紙に答えが書いてあるようなもの。あとは答えから解いていけば済む。

「私」が実在でないとわかれば、同様に「あなた」も実在ではないとわかるし、すべての生物も実在ではないとわかる。物はどうだろうか。変化していく物も実在でないとわかれば、永遠不変の実在とは何なのだろうとなって、そこにあるのはアウエアネス(意識・気づき)だろうとたどり着く。

もう一度書きます。アウエアネスとは空間のようなもので、そこに万物がエネルギー現象として現れる。そのアウエアネスが私たちの本質。それは他に何もない一つのもの。

初日に、記憶を無くした父の話を書きました。もし、すべての記憶を失い、言葉も忘れ、さらに、自分の手足が動くことや、自分が体の中に閉じ込められた存在だという感覚も忘れたらどうなるでしょうか。そうした感覚も、後天的に学習した感覚でしかありません。

そこにあるのは、意識(アウエアネス)です。その意識の中に世界が現れ、同じものが星を動かし、心臓を脈動させ、木々の緑となって輝きます。

ボブはそれを知性エネルギーと呼びます。それは生まれることも死ぬこともない永遠不変の実在。それがあなたです。

明日につづく。

2016年2月25日 (木)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 4

エンライトメント

アウエアネス(awareness)は、aware(気づいて)いる状態。つまり、目覚めている状態。別の言い方をすれば、覚醒(エンライトメント)している状態。
私たちはアウエアネスそのものであり、エンライトメントしている状態です。(「私」はいないのですが、便宜上「私」という言葉を使います)

ボブの教えを理解しても、エンライトメントは起きません。何か特別な理解も起こりません。
もしそれが起こったというなら、それはトリップであり、トラップ(罠)です。私たちは、気づいていようがいまいが、もともとエンライトメントしている状態にあるのです。

ボブは「今この部屋でaware(目覚めて)していない者はいるのか?みんな目覚めているだろ。今朝目覚めてからずっと目覚めているだろ。もしこの目覚めている状態の外に出られるものなら出てみろ」と言って笑わせます。

私は覚醒体験そのものは否定しません。私もボブの本を読んでいて、時間が無くなった感覚が起こり、まわりの物すべてが鮮明に見え、何もかもがクリアーになった一瞬がありました。私は自分がエンライトメントしたのだと思い、友人にメールしたものです。

でもその感覚は翌日には消えてしまいました。そんなことは誰にでも起きる体験にすぎないとボブは言います。ボブの教えは、何かを得ることや、何かが起きることとは全く関係ありませんし、何も起きません。
何かが起きることを期待して瞑想したり、修行を続けるのなら、ボブの本に出てくる修行者と同じ過ちを犯すことになります。

真理を得るために修行者はグルのもとで12年間修行するように言われます。12年経ってグルに尋ねると、グルは「汝それなり」とだけ言います。

納得できなかった修行者は別のグルを訪ね、そこでも12年間修行するように言われます。12年が経ち、修行者がグルに尋ねるとグルは、「汝それなり」と言います。それを聞いて修行者は自分がもうそれなのだと理解します。

ここで多くの読者は、修行者にエンライトメントもしくは何か特別な理解が起こったのではないかと勝手に解釈してしまいますが、実際は何も起こっていません。普通に、自分はもうそれだったと理解しただけの話です。

「私はエンライトメント(覚醒・悟り)した。あなたも私のもとでこれこれの瞑想・修業をしなさい」というマスター(グル)には気をつけてください。全部インチキです。あなたはもうエンライトメントしているのです。
差し障りがあるので名前はあげませんが、「私は覚醒した」というマスターは全部インチキです。感動的なベストセラーを書いていようが、たくさんの信奉者を集めていようが、彼らはあなたに解放をもたらしません。

20年以上もあちこちのインチキグルの間をフラフラさまよい、気休め程度にしかならないあれこれの瞑想や方法を繰り返した私が偉そうなことは言えないのですが、エンライトメントするという概念は間違いです。

何十年も瞑想して、ごく稀な人にしか起きないエンライトメントを求めてこれからも瞑想を続けますか。本当にそんな状態があると思いますか。それとも、本当に自分が実在なのかを自分で調べて、アウエアネスの顕現とも言えるこの世界こそが奇跡なのだということを理解し、そこにはただ一つ、アウエアネスがあるだけだということを理解しますか。

もし、私もあなたも実在ではなく、同じ一つのものの現れにすぎないということを理解したら何が起きるでしょうか。
路上の売春婦も乞食も、ロックスターも大統領も、実は同じ一つのものの現れなのだと知ったなら、人々に対する途方もない慈愛が生まれ、争いは地上から消えると思いませんか。

思考や概念が実態のないもので、消えていくものだと知ったなら、恨んでいる私も、恨む相手も実在ではないと知ったなら、人を恨んだり、憎しみを抱くことすらばかばかしくなるのではありませんか。

過ちや後悔も、実際はアウエアネスの中で起こった概念にすぎないと知れば、とてつもない癒しが起きると思いませんか。

私はボブの教えを完全に理解するのに一年以上かかりました。その原因の一つには言葉の壁がありました。
精神世界の用語を母国語以外の言葉で理解するのは容易ではありませんでした。

取りようによってはどういう風にでも解釈できる場合も多い。マインドという言葉一つを取っても、日本語で何通りもの翻訳が可能で、そのニュアンスを正確に掴むのは難しい。

日本語で手に入る情報は「ただそれだけ」と、限られたネット上の情報しかありませんでしたが、そこには彼がエンライトメントしたのかどうかの情報はありませんでした。

加えて私は20年以上にも渡ってエンライトメントを求めてフラフラしてきた。日本人の多くは仏教徒で、お釈迦さまが悟りを開く話は何度も聞かされていて、悟りは開くものだという先入観がある。その先入観が理解を遅らせました。その先入観がなくて、言葉の壁がなかったなら、ボブの教えそのものを理解するのに、二週間もあれば十分だったのではないでしょうか。

私はボブのミーテイングに60回以上出ていますし、ランチだって20回近く一緒に食べています。ボブの英語もだいたいは理解できます。でも、もしミーティングが日本語で行われ、日本語での質疑応答が可能だったなら、おそらく数回のミーティングで理解できたのではないかと思っています。awareness(意識・気づき)と、conscious(意識)の違いも、日本語で説明してくれれば、全然難しくないことです。

「エンライトメントなんてない」と英語で言われても、それなら「何か別の特別な理解」が起きるのではないかと考えてしまいます。日本語で「何も起きない。一切ない」と言ってくれれば済む話でした。

「私はいない」ということを自分で調べることも、そこに何かエソテリック(秘教的)な方法があるわけではなく、普通に自分で調べて自分で納得するだけの話です。

ボブの教えは、何十年も瞑想して、ごくまれな選ばれた人しか手に入れることができない何かではありません。言葉が理解できて、自分で調べる勇気のある人なら誰でも理解できる教えです。

ちなみに、ボブがマハラジのもとに滞在したのは五週間だと「Living Reality」にあったと思います。

ボブの教えには、何かになる、何かを達成するということは一切ありません。瞑想もセラピーもブリージングもヒーリングもリトリートもシャクティパッドも一切不要です。私たちはもうすでにそれなのです。

明日につづく。

2016年2月24日 (水)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 3

アウエアネスについて

アウエアネスについてもう少し詳しく書いておきます。英語では、awareness。アウェアネスと小さいェで表記しないと正確ではないかもしれませんが、便宜上、大きいエでやっています。

アウエアネス(意識・気づき)をボブは、space-like awareness(空間のような気づき・意識)と表現する時もあります。
それは、万物が現れる場所という意味でそういう表現を使っています。

また別の表現では、「認識する空」「知性エネルギー」と言う言葉を使う時もあります。
では一体それは具体的には何なのかということになるのですが、ボブは、「それはマインド(思考)では理解できない、マインドを超えたもの」と言います。

要するに、考えてもわからなし、正体を突き詰めようとしても無駄だと言っているのです。
「アウエアネス」「万物は一つのもので、エネルギー現象としてアウエアネスの中に現れる」といったことを、頭で理解しようとしても無駄だと言うのです。

科学的に立証できないし、理論的には説明できない。
だってそうでしょう、そんなことが立証できるなら、NHKがドキュメンタリーにして放送するでしょうし、ピュリッツアー賞だってノーベル賞だってもらえるはずです。

そんな時ボブは、風が木を揺らす例えを使います。
アウエアネスは風のようなもの。風が吹いているかどうかは、遠くで見ていてもわからない。でも、風が木々の枝を揺らすと、ああ、風が吹いているんだなとわかると。

ボブは、風のかわりに様々なポンター(ヒント)を使います。consciousness(意識)、seeing(見ること)、knowing(認識すること)を使う時もあります。

「万物は、consciousness(意識)の中に現れる」
「万物はseeing(見ること)の中に現れる」
「万物はknowing(認識)の中に現れる」

というふうに使います。

説明の都合上、「私」という言葉を使いますが、「世界は私の意識の中に現れる」「世界は私の見ることの中に現れる」「世界は私の認識の中に現れる」という意味です。

ところが、ボブの教えるアドヴァイタの世界では、「私」はいない。つまり、「私の」と思っているのは錯覚で、そこには主体のないconscious、seeing、knowing があり、そこに世界が現れるという意味です。

conscious、seeing、knowingはアウエアネスそのものではなく、ポインター(ヒント)なのですが、アウエアネスとほぼ同じだと考えても差し支えありません。

私たちの脳が意識しているのではく、アウエアネスが現れているのです。
私たちの目が見ているのではなく、アウエアネスが現れているのです。

awareness は、意識・気づきという意味ですが、consciousnessも意識という意味で、日本語にするとほとんど同じ意味です。でもボブはこの二つを使い分けています。

その違いは何かと聞いたところ、"Consciousness appears on awareness."と答えました。consciousness(意識)はawareness(意識・気づき)の上、もしくはぴったりとくっついた状態で現れるということ。

awarenessは、そこに人の概念が入らない純粋なエネルギー状態。一方で、consciousnessは人間の概念がラベルとなって貼り付く空間。

例えば、私たちは椅子を見て、それが椅子だということを経験的に学習して、椅子というラベル(概念)を椅子に貼りつけます。月を見て、あれが月というものだと習って、月というラベルを貼ります。同様に、すべての物にラベル(概念)を貼りつけていきます。

二歳ぐらいになると、親が「ジョニーはいい子だね」「ジョニーはかわいいね」と言うのを聞いて、そうか私はジョニーというものなのだと学習し、ジョニーという概念のラベルを貼ります。
そうした概念のラベル貼りを何度もやった結果、あたかも現実としてそれらが存在するかのような強固なものとなり、あなたのまわりの世界を構成します。

そうやっていろんなことを学びながら、概念のラベル貼りが行われる空間のことをボブはconsciousness(意識)と呼んでいます。

そしてその概念の集積があなたの内側で「私」を形成しています。このブログの最初に私の父の話を引き合いに出して、もしすべての記憶をなくしたらどうなるだろうかと書きましたが、もしすべてのラベルをはがしてしまったら、そこにいるのは何者なのでしょうか。

consciousnessとは、要するに、私たち人間の意識のことなのですが、ボブの教えでは私はいないのです。
厳密には同じではないのですが、consciousness(意識)はアウエアネスを示すポインター(ヒント)で、アウエアネスとほぼ同じ意味だと思って差し支えないと思います。

seeing も knowing も同様に、アウエアネスを表すポインターです。
アウエアネスは掴むこともできなければ、認識することも理論的に説明することもできないものです。そのため、人間の意識や五感が、それを垣間見るポインターとなります。

認識することも掴むこともできないアウエアネスを手に入れようとするあまり、エンライトメント(悟り)いう都合のいい解決法が編み出されました。それについては明日説明しますが、そんなものは存在しません。私たちはもうすでにエンライトメントしている状態にあるのです。

満天の星空を見た時、真紅のバラを見た時、私たちは「私」の目が見ていると思っています。でもそうではなく、目を通してアウエアネスを感知しているのです。

降るような満天の星空を見た時、そのこと自体が奇跡だということに私たちは気づかない。真紅のバラを見た時、それを当たり前のことと受け止めているが、ものすごい奇跡が起きているのだと気づかない。

明日につづく。

2016年2月23日 (火)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 2

万物は一つであり、すべてはアウエアネスの中に現れる。

アウエアネスを英和辞書で引くと、「意識・気づき」とあります。その訳をそのまま日本語に当てはめてよいと思いますが、少しだけ違うのは、ボブの使うアウエアネスという言葉の意味は「主体のない意識・気づき」です。

もう少しくだけた言い方をすると、「意識したり気づいたりする私(人)のいない意識・気づき」です。
通常、人が何かを意識したり気づいたりする場合、まず私(主体)がいて、対象物(相手や物)があって、私が意識・気づくという行為があります。

でも、ボブの言うアウエアネスには、行為だけがあり、主体である私も、対象である物も相手もない状態、純粋な意識・気づきだけがある状態のことです。

ボブの教えは、まず最初に、「私はいない」ということを、自分で調べて気づくところから始まります。私はいないということが理解できれば、おのずとそこにあるアウエアネス(意識・気づき)は、主体も客体もないものになります。

ボブは「アウエアネスは他には何もない一つのもので、万物はそのアウエアネスの中に現れる」と言います。
前回の訪問の時私は、(万物は私の意識・気づきの中に現れるのだ)と解釈していました。それで、「エリザベス通りのビルは私が眠ると消滅するのか?」「エルザべス通りのビルは私が死んだら消えるのか?」とバカみたいな質問を繰り返ししたものです。

当たり前の話ですが、私が眠ろうが、死のうが、世界は消滅しません。そのまま変わらず存在します。
ボブは説明の便宜上、万物が現れる舞台であるアウエアネスのことをuniversal awareness(普遍的アウエアネス)と言い、個人が感じるアウエアネスのことをindividual awareness(個的アウエアネス)と表現する時があります。

今回の滞在中にも、私と同じような疑問を抱いている人がいて「普遍的アウエアネスと個的アウエアネスの関係を説明してください」と聞いた人がいました。

その答えは簡単で、普遍的アウエアネスと個的アウエアネスは同じものです。もっとわかりやすく言うなら、個的アウエアネスなんてものは存在せず、普遍的アウエアネスがあるだけです。ボブの教えでは、そもそも個人は存在しません。

あるのはアウエアネス(普遍的アウエアネス)だけです。それは他に何もない一つのもので、世界はそこにエネルギー現象として現れます。宇宙も銀河も星も。あなたも私も、動物もばい菌も、すべてはそのアウエアネスの中に現れます。

アウエアネスの中にポツンと私が現れます。私は全体の一部、全体と一つだということを知りません。そのため、個人として感じる「意識・気づき」を、自分の意識・気づきだと錯覚します。

個人のアウエアネスというのは錯覚です。そもそも私という個人は存在しません。例えて言うなら、宇宙の隅々まで広がるアウエアネス(意識・気づき)を人間の感覚器官を通して、ほんの少しだけ感知しているようなものです。

私のアウエアネス(意識・気づき)で世界を感知していると錯覚しているのですが、そうではなく、普遍的なアウエアネス(意識・気づき)の一部を個人の感覚器官で認識しているにすぎません。

ボブに「アウエアネスとは何ですか」と質問すると、「あなたは外のトラムの音に気付いて(aware)いないのか?それがアウエアネスだ」と答えます。

当時私は、この禅問答のようなやり取りの意味がわからず、何度も同じ質問を繰り返したものです。私という個人の感覚器官である耳がアウエアネスの現れとしての音を感知しているだけのことです。

ボブによれば、アウエアネスはマインド(思考)では理解できないと言います。そのため、アウエアネスをうかがい知るポインター(ヒント)として、意識(consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)など、人間の感覚器官で感知できるものを使います。アウエアネスとは、そういったポインターを通してしか、うかがい知ることができないものなのです。

だからこそ、アウエアネス・awareness(awareは気づくという意味)という言葉で、他には何もないただ一つのものを表現しているのです。

私は今回のミーティングで、答えはもうわかっていたのですが、確認のためこう質問しました。
「あなたは、アウエアネスは全知全能偏在だと言います。ですが、私のアウエアネスは外のトラムの音を気づく(aware)ことはできても、地球の裏側の物音を気づく(aware)ことができません、どうしてですか?」

ボブは笑って、「それぞれの動物には特性があるからさ」と答えました。
人間にはアウエアネスを感知するツールとして、意識や五感を持っています。同様に、コウモリは超音波で世界を認識しているし、犬は人間よりもはるかに優れた嗅覚で世界を認識しています。

地球上の生物それぞれが、それぞれの器官を使って、それぞれの世界を認識しています。しかし、そこにあるのはたった一つのもの。それがアウエアネスです。

明日につづく。

2016年2月22日 (月)

セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 1

2018年11月21日追記

このブログ内のセイラー・ボブ・アダムソン関連の記事は加筆、修正を加え、以下のサイトに移記しましたので、そちらで読んでいただくようお願いします。

新ブログ

以前に「拓の世界一周旅日記」に書いたセイラーボブ関連の記事は、加筆、修正することなく、書いた当時のまま残しています。

ただ当時は、私のボブの教えに対する理解がまだ浅く、誤解を招く表現が多々あり、わかりずらいものになっています。
新しいブログに移記したものは、かなりわかりやすいものになっておりますので、すでに当サイトで読まれた方も、ぜひもう一度新しいブログで読んでいただくようお願いします。

そちらのブログでは、セイラー・ボブの教えをもっと詳しく書いていく予定ですので、よかったら時々読んでやってください。
***

私とは何者か

今から八年ほど前に父が脳梗塞で倒れた。直接の原因は過度の飲酒。大量に酒を飲んだ後で外出し、路上で倒れて救急車で病院に運ばれた。

二日ほど経ち、酒が抜けてからの医師の診断は、脳梗塞から来る認知症。脳以外にどこも異常がなく、体に麻痺はなかった。会話も普通にできたし、食欲も普通にあった。

ところが、記憶の大部分が失われていた。自分の名前と、私が息子であることはかろうじて覚えていたが、その他の記憶がないのである。

年齢を尋ねると、二十八歳と答える。父は当時八十歳に近かった。家はどこにあるのかと聞くと、名古屋と答えるが、父は名古屋に住んだことは一度もない。

何を聞いても覚えておらず、そこにいるのは父ではなかった。ところが不思議なことに本人は、記憶がないということに対して、不安やネガティブな感情がないのである。

その時私は、人間がすべての記憶を失ったら、そこにいるのは誰なのだろうと思った。自分の名前すら忘れてしまったら、私は一体何者なのだろうかと。

すべての記憶を無くしても、誰かが衣食住の世話をしてくれたら、生きていくことは可能で、それが悲しいとか不安の気持ちはない。思い出す記憶がないのだから、思い出して不安になることも悲しくなることもない。比べる記憶がないのだから、未来を不安に思うこともない。

一か月ほど病院で過ごしたが一向に回復しなかったため、施設に移って生活するようになると、少しづつ記憶が回復し、半年後にはほとんどの記憶を取り戻した。

そうなると、どうして俺をこんな施設に入れたのだ、早く自宅に戻せと言い出し、不安やネガティブな感情の中で過ごすようになった。

私は一体誰なのか。すべての記憶を取り去ったそこにいるのは一体何者なのか。


セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび

昨年四月にボブのもとを離れる時、私はボブの言っていることを完全に理解していると思っていました。ところが日本に帰って一人になって考えてみると、どうもしっくりこない部分や、理解の浅い部分があることに気づきました。

そして毎日ボブとギルバートの本を読む日々。それでもしっくりこない部分があったので、もう一度メルボルンのボブに会いに行きました。

今回は2016年1月28日から2016年2月14日の間に八回ミーティングに参加。そのほか、ボブを囲んで有志でランチに一回行きました。そして今回、完全にボブの教えを理解、納得しました。

9か月ぶりに訪ねたセイラー・ボブは、

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもない。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎない。」

と、毎度おなじみのフレーズでspielを始め、昨年私がボブのもとを離れた時と変わらず、元気でミーティングを続けていました。
その様子を別のブログで少しだけ書いていますので、リンクを貼っておきます。
ミーティングその1

今回このブログで書くのは、前回のブログではわかりにくかった部分、説明不足だったなと思う部分だけを書きますので、前回訪問時のブログを読んでない方は、前回のブログも併せて読んでください。長々と書くつもりはなくて、足りない部分の付け足しという感じで、全8回の予定です。

明日に続く。

2018.11.21追記

当ボログ記載のセイラーボブに関する記事は掲載した時点での私の理解がまだ浅く、説明がわかりずらいため、最低限の加筆修正ののち新しいブログに移記しました。そちらの方が多少はわかりやすいと思いますので、そちらで読んでいただくようお願いします。また、2019年春ごろから新たにセイラーボブの教えについてもっとわかりやすく書く予定です。

新ブログ

Sailor Bob's Cafe

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