セイラー・ボブ・アダムソン・ふたたび 2
万物は一つであり、すべてはアウエアネスの中に現れる。
アウエアネスを英和辞書で引くと、「意識・気づき」とあります。その訳をそのまま日本語に当てはめてよいと思いますが、少しだけ違うのは、ボブの使うアウエアネスという言葉の意味は「主体のない意識・気づき」です。
もう少しくだけた言い方をすると、「意識したり気づいたりする私(人)のいない意識・気づき」です。
通常、人が何かを意識したり気づいたりする場合、まず私(主体)がいて、対象物(相手や物)があって、私が意識・気づくという行為があります。
でも、ボブの言うアウエアネスには、行為だけがあり、主体である私も、対象である物も相手もない状態、純粋な意識・気づきだけがある状態のことです。
ボブの教えは、まず最初に、「私はいない」ということを、自分で調べて気づくところから始まります。私はいないということが理解できれば、おのずとそこにあるアウエアネス(意識・気づき)は、主体も客体もないものになります。
ボブは「アウエアネスは他には何もない一つのもので、万物はそのアウエアネスの中に現れる」と言います。
前回の訪問の時私は、(万物は私の意識・気づきの中に現れるのだ)と解釈していました。それで、「エリザベス通りのビルは私が眠ると消滅するのか?」「エルザべス通りのビルは私が死んだら消えるのか?」とバカみたいな質問を繰り返ししたものです。
当たり前の話ですが、私が眠ろうが、死のうが、世界は消滅しません。そのまま変わらず存在します。
ボブは説明の便宜上、万物が現れる舞台であるアウエアネスのことをuniversal awareness(普遍的アウエアネス)と言い、個人が感じるアウエアネスのことをindividual awareness(個的アウエアネス)と表現する時があります。
今回の滞在中にも、私と同じような疑問を抱いている人がいて「普遍的アウエアネスと個的アウエアネスの関係を説明してください」と聞いた人がいました。
その答えは簡単で、普遍的アウエアネスと個的アウエアネスは同じものです。もっとわかりやすく言うなら、個的アウエアネスなんてものは存在せず、普遍的アウエアネスがあるだけです。ボブの教えでは、そもそも個人は存在しません。
あるのはアウエアネス(普遍的アウエアネス)だけです。それは他に何もない一つのもので、世界はそこにエネルギー現象として現れます。宇宙も銀河も星も。あなたも私も、動物もばい菌も、すべてはそのアウエアネスの中に現れます。
アウエアネスの中にポツンと私が現れます。私は全体の一部、全体と一つだということを知りません。そのため、個人として感じる「意識・気づき」を、自分の意識・気づきだと錯覚します。
個人のアウエアネスというのは錯覚です。そもそも私という個人は存在しません。例えて言うなら、宇宙の隅々まで広がるアウエアネス(意識・気づき)を人間の感覚器官を通して、ほんの少しだけ感知しているようなものです。
私のアウエアネス(意識・気づき)で世界を感知していると錯覚しているのですが、そうではなく、普遍的なアウエアネス(意識・気づき)の一部を個人の感覚器官で認識しているにすぎません。
ボブに「アウエアネスとは何ですか」と質問すると、「あなたは外のトラムの音に気付いて(aware)いないのか?それがアウエアネスだ」と答えます。
当時私は、この禅問答のようなやり取りの意味がわからず、何度も同じ質問を繰り返したものです。私という個人の感覚器官である耳がアウエアネスの現れとしての音を感知しているだけのことです。
ボブによれば、アウエアネスはマインド(思考)では理解できないと言います。そのため、アウエアネスをうかがい知るポインター(ヒント)として、意識(consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)など、人間の感覚器官で感知できるものを使います。アウエアネスとは、そういったポインターを通してしか、うかがい知ることができないものなのです。
だからこそ、アウエアネス・awareness(awareは気づくという意味)という言葉で、他には何もないただ一つのものを表現しているのです。
私は今回のミーティングで、答えはもうわかっていたのですが、確認のためこう質問しました。
「あなたは、アウエアネスは全知全能偏在だと言います。ですが、私のアウエアネスは外のトラムの音を気づく(aware)ことはできても、地球の裏側の物音を気づく(aware)ことができません、どうしてですか?」
ボブは笑って、「それぞれの動物には特性があるからさ」と答えました。
人間にはアウエアネスを感知するツールとして、意識や五感を持っています。同様に、コウモリは超音波で世界を認識しているし、犬は人間よりもはるかに優れた嗅覚で世界を認識しています。
地球上の生物それぞれが、それぞれの器官を使って、それぞれの世界を認識しています。しかし、そこにあるのはたった一つのもの。それがアウエアネスです。
明日につづく。
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拝読しました。目覚めについての見解、わたくしなりに考察しました。目覚めをそのまま受け取り、ぼくらは瞑想による過度な深入りを展開しようとも、目覚めはあくまで“目覚め”に過ぎず、ありふれた状態が故にその有り難みを日常生活の中で忘れてゆく、と。たしかに目が覚めてから仕事も経済も運搬もない社会なら、ぼくらは寝ぼけ眼で喫茶店にでも入り、コーヒーとドーナツでも食べて生きる静けさを新鮮さを持って楽しめるかもしれません。しかし、ぼくらの地球は何かと条件やら制約があり、目覚めを有り難く拝借することがほぼ不可能に近い、と。ユートピアな社会になれば、万民は平等に分かち合い、ただ目覚めているだけでも感謝の気持ちが湧いてくるのかもしれません。よく考えると、セイラーボブアダムソンは隠居の身ですよね。仕事と言っても、週3回のミーティングを開いて無条件の愛を唱える立場。社会の規則やら制約やらに縛られない立場が故に好きなことを言えるのかもしれません。しかし、やはりマスターの存在は尊く、何度も関わってきた人間を虜にしてしまいますよね。まだまだ、セイラーボブアダムソンの言行動は底知れないですね。
投稿: | 2016年7月17日 (日) 23時15分