セイラー・ボブ・アダムソン

2015年1月30日 (金)

セイラー・ボブ・アダムソン㉓・最終回(メルボルン)

2018.11.21追記 お知らせ

このブログ内のセイラー・ボブ・アダムソン関連の記事は加筆、修正を加え、以下のサイトに移記しましたので、そちらで読んでいただくようお願いします。

新ブログ

以前に「拓の世界一周旅日記」に書いたセイラーボブ関連の記事は、加筆、修正することなく、書いた当時のまま残しています。

ただ当時は、私のボブの教えに対する理解がまだ浅く、誤解を招く表現が多々あり、わかりずらいものになっています。
新しいブログに移記したものは、かなりわかりやすいものになっておりますので、すでに当サイトで読まれた方も、ぜひもう一度新しいブログで読んでいただくようお願いします。

そちらのブログでは、セイラー・ボブの教えをもっと詳しく書いていく予定ですので、よかったら時々読んでやってください。
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セイラー・ボブ・アダムソンの記事を①から読む方はこちらから 

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結びに代えて

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長い間、ボブに関するレポートを読んでいただきありがとうございました。明日からまた格調高い?旅ブログに戻ります。

私は、中村元さんの仏教関係の本とかも何冊か読んだことがありますが、仏教で言っていることすらよく理解していなかった。
今回、ボブを学ぶ中で、般若心経のあの部分が何を言っているのかわかったので書いておきます。

般若心経では、色即是空・空即是色と言っています。私の家は禅宗なので、葬儀や法事の時など、この文句を何百回と聞いて育ちました。

これをボブが引用した英語で言うと、"Form is emptiness, emptiness is form."(ボブが引用したのは後半の部分)。

直訳すると、「形は空、空は形」。

色即是空・空即是色をネットで解説しているサイトなどで調べると、色(しき)というのはすなわち(いろ)のことで、万物を指しています。
やさしい言葉になおすと、「万物はすなわち、これ空である。空はすなわち、これ万物である」。

驚きました。仏教で言っていることはそういうことだったんですね。日本人の私がボブを経由して「空」の本当の意味を知りました。
ボブの話は「禅」からの引用も多く、禅に対する理解も深まりました。

私は、"Out on a limb"という言葉が好きです。
これはシャリー・マクレーンの本の題名にもなっている言葉ですが、直訳すると、「枝の先」という意味で、もともとは聖書からの言葉だそうです。

その意味は、果実を手に入れるには危険をかえりみず、枝の先まで登って行って、手を延ばさないと手に入らないという意味です。
枝は折れて、地面に叩きつけられるかもしれない。でもそうしないと果実は手に入らない。

私は教えを学びたいと思った時は、いつも枝の先まで行って手を延ばすようにしてきました。そして今回、手の中に一つの果実が残りました。
この果実が、この先、花を咲かせるのか、枯れてしまうのかはわかりません。

ボブの話を聞きたいけれども、英語がわからないからと言われる人もいるでしょう。
でも、ボブがニサルガダッタから教えを学んだ時は通訳を介してだったそうです。

やみくもにボブに会いに行くことを推奨しているわけではありませんが、ボブは「私の話は頭ではなく、ハートで聞いてほしい」と言います。本人に直接会えば何かが変わるかもしれません。

また、私でよければ、できる範囲で回答させていただきます。質問・感想を気軽にコメント欄へお寄せください。

Out on a limb!

***

2015.4.2追記

追記ばかりしているので、全体のまとまりが悪く、いっそ全部書き直したいぐらいですが、時間とともに私の理解が深まる様子がわかって、それもいいのかなと思います。

今日もボブのミーティングに出ました。昨年11月14日にメルボルンにやってきて、途中一週間はビザの都合でニュージーランドへ行ったものの、それ以外は足かけ五か月にわたって、週三回ほぼ欠かさずボブのミーティングに出ています。4月14日のミーティングを最後にメルボルンを離れるので、あと数回はミーティングに出る。

ミーティングで何が話されているかというと、たいていは、ボブの教えを日常生活にどう生かすかというような内容。参加者が気づいたことや、思っていることを話して、他の人やボブが意見を言う。

個人的な悩みや物語を語る人はほとんどいない。というのも、そういうものはマインドが作り出したドラマにすぎないということをみんなよく理解しているから。

すべての不幸は自分の思考が作り出していて、自分でそれに囚われているにすぎない。それこそがボブの教えの神髄で、そのことだけ気づいて生きていけば十分ではないでしょうか。

***

2015.7.30追記

悟り、覚醒について。
ボブのもとを離れて三か月、悟りや覚醒とは、ということを時々考えます。

例えば、夢さえ見ないほどぐっすり眠った翌朝の目覚めた瞬間。私の脳裏に思考はなく、すっきりしています。でもそれはほんの一瞬で、すぐに、(今日はあれこれをしないといけない)とか、(あの悩み事はどうしようか)、という思考がやってきます。

思考がやって来るまでのほんの一瞬は、本当に幸せで、満たされていて明晰な状態です。それが覚醒であり悟りで、私たちの本性ではないでようか。

私たちは、それを失ったわけではないし、探さなければいけないわけでもない。それはいつもそこにある。
思考の後ろにそれはいつもある。
探し求める必要がないほど、私たちはそれをよく知っている。

でも、私たちは、それを体験したいと求めてあちこち捜し回る。そんな時ボブはこう言います。

"Full stop! What's wrong with right now? If you don't think about it."

***

2016.1.28から2016.2.15日まで再度セイラー・ボブを訪問しました。その時の様子や理解が深まった部分は、「セイラー・ボブ・アダムソンふたたび」に記載しました。

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後で信心銘の記事を追加した分あり。こちらから。

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2015年1月29日 (木)

セイラー・ボブ・アダムソン㉒(メルボルン)

The Spiel⑤

今みなさんにお尋ねしますが、今みなさんは見ていますか?
そう、みなさんは今この瞬間見ていて、改めて見ることを始める必要はないとわかっています。

今朝起きたときに、あなたは見ることをわざわざ始める必要はありませんでした。見ることは即座に起こり、聞くことも同様でした。

あなたが目覚めた時、聞くことを始める必要はありませんでした。
聞くことは起こっていて、そのままずっと一日中続いています。

もしあなたが眠っている間に誰かが呼びかけたとしても、あなたは依然として聞いています。聞くことをわざわざ始めたわけではなく― 一日中ずっと続いている。
それはあたかもあなたの呼吸、心臓の鼓動やその他の生理機能のようなものだ。

見ることはあなたの目を通じて起きるが、目はあなたに、「私が見る」とは言わない。それは、それを通して見ることができる器官に過ぎない。
それから、あなたは思考を使って、「私は見る」という思考に変換する。

思考が「私は見る」と変換すると、あなたはその存在― 「私」が見る能力を持っていると信じてしまう。
物事を良いとか悪いとか判断することも、すべてこの架空の存在と関係する。

そのように見ることは目を通じて起こり、思考によって、「私は見る」と変換される。
聞くことは単に耳を通じて起こり、「私は聞く」という思考に変換される。

しかし、「私は見る」という思考が実際に見ることができるのか?思考が聞くことができるのか?

あなたが気づいているという思考が気づきなのか?あなたに思考がやって来る以前にあなたは気づいている。
あなたが選ぶという思考が実際に選ぶのか?

私たちが非常に重要だと考えている、この思考でできた存在には、見たり、聞いたり、考えたりする能力はない。
考えることは自然に起こり、思考によって変換される。その思考でできた存在はそれらのどれをする能力も持っておらず、実体や独立した性質を持つものではない。

すべては一つのエッセンス、一つのエネルギー、それと同一の認識する空が、すべての顕現を様式化し、形造り、具現化する。そこには驚くべき知性が宿っていて、あらゆる姿や形となって、常に現れている。

ニサルガダッタは言った。「自分ではない物のフリをするな、また、本当の自分を拒絶するな」
私たちは本当はあの純粋なる知性エネルギーだということを認識しないで、見せかけを本当だと信じて、分離した存在として振る舞っている。

エネルギーのパターンが具現化し、パターンがあちこちに現れ、パターンが消えて行くが、本質は変わらないままだ。その本質は崇高で遍在、それがあなただ。

さて今ここで話したことをちょっと調べてみよう。そしてこれは限られた人だけのものではなく、自分自身で本気で調べてみようという人たちのものだ。

誰もあなたにこれを与えてはくれない。あなたは自分でこれを調べなければならない。さあ今、このまま続けて、始めてください。

-Sailor Bob Adamson

The Spielを①から読む方はこちらから。

The Spiel を①から⑤まで、まとめて読む方はこちらから。

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2015年1月28日 (水)

セイラー・ボブ・アダムソン㉑(メルボルン)

The Spiel ④

ちょっと思考を止めて、何を話すことができるか、思考無しで何ができるか試してみるといい。
その間、自分は消えたりバラバラになったりはしないし、呼吸が止まったり、心臓が止まったりもしないのがわかるだろう。

機能は引き続き働き続けている― そこでは概念化は止まっている。仏教徒はそれを一つのセンテンスで表す。彼らは、大いなる完成は概念化されない意識だと言う。

思考は一瞬停止したあとに、また別の思考がやってくるが、それにもかかわらず、あなたは一瞥を得る。

思考が停止したとき、あなたはばらばらになったり、消滅したりはしない― 実在としてのあなたは思考以前に存在する。そこには、生そのもの、生のエッセンスがあり、思考が停止している間もそこにある。そしてそれは次の思考がやってきた時も依然としてそこにある。

次の思考がそこへやって来て、変化し続ける。しかし思考はその気づきを崩壊させたり、汚したりは決してしないだろう?

外の自然を見てごらん。自然は、その反対の極へと揺れ動く。しかし、自然には参照点がない。昼は夜と張り合うことはない、静寂はざわめきと戦わない、動きは静止と格闘しない。上げ潮は下げ潮とは争わない。

しかし私たちはいつも争っていて、それが恐れ、心配、ストレス、罪悪感、恥辱、後悔、意気消沈などをもたらし― すべての心理的苦悩は関係性が原因だが― それは私たちが自分だと思い込んでいる参照点に関係している。

「私」だけが恐れを抱く、「私」だけが心配をする。「私」だけが不幸や意気消沈、すなわち自己憐憫を抱く。つまり、「私」がすべての心理的苦悩の原因なのだ。その「私」というのは、自分自身に対して自分で抱いてきたイメージであり、そうあるべく努めてきたものだ。

心配、恐れや意気消沈はそれが原因だ。それがいわゆるカルマと言うもの― 因果(原因と結果)だ。もし、私が言うその「私」が、実体つまりはなんら独立したものではなく、全くのフィクションだとわかったら、原因なくして結果がありえるだろうか。

もしそれが、どこにも結びつく場所がないとしたら、結果はありえないとわかるだろう。それはただそのままあるだけだ。
すべての自分の問題の原因が、自分は分離した一個の存在であると信じていることにあることを、あなたははっきりと認識することができる。

さて私たちは、ここに分離した一個の存在がいるかどうかを調べてみる必要がある。私はくだらない考えの話をしているわけではない。というのも、そういう心理的な概念や、心理的なたわごとは、ここではもう昔に置き去りにしているからだ。

かって私はそういうことで手いっぱいだったが、ずいぶん前にそれはなくなり、私が言っていることを理解する人たちが現れた。
玉ねぎの皮むきのように、この感覚やあの感情というふうに働きかける必要はないし、今日はこの情動で明日はまた次などと働きかける必要もない。

それがしがみつく物が何もないとか、関連付けるものが何もないなどと確かめる必要もない。それはひとりでに自然に消えていく。

そしてそれは、この自己の中心がフィクションであるということを調べることによってできる。

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2015年1月27日 (火)

セイラー・ボブ・アダムソン⑳(メルボルン)

The Spiel③

思考は言葉でできているが、言葉はあなたの生得のものではない。あなたが使ってきた言葉やこの先使いそうな言葉でさえ、すべては学んだものである。

赤ん坊は生まれてきた時、どれだけの言葉を知っているだろうか。それで、あなたは一体いつから始まったのか。誕生の時からとあなたは言うだろう。しかし、誰が自分の誕生の瞬間を覚えているだろうか。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていないことに気づき、自分では二歳かそこらぐらいという一定の時期までしか遡れず、それ以前のことは覚えていない。

自分の始まりが出生だと思うのなら、どの時点でそれは始まったのか。内在する知性が様式化し、形造られ、具現化する― その一つのパターンをあなたは父と呼ぶ。知性がそのパターンの中にあふれ、精子を作り出すことを可能にする。

その同じエネルギーが母親の中で様式化し、形造られ、具現化され、卵子を作り出す。卵子には知性エネルギーが宿ってる。というのも、卵子は自分で子宮内膜に着床するからだ。
精子の中にも知性エネルギーが宿っている。なぜなら精子は卵子に泳ぎ着くからだ。このことは、精子もまた知性エネルギーに満ち溢れていることを意味する。

そして精子は子宮に入るためにはどうすればいいのかを知っている。卵子と精子は一つになり、その知性エネルギーが細胞を分裂させ、さらに細胞分裂を繰り返し、小さな胎芽、つまりは小さな胎児を形造る。

あなたが分離した存在だと思うのなら、あなたの胎児の時はどうだっただろう。「今日は腕を成長させなくちゃ、肝臓か、たぶん脳かなんかを少し」と言っただろうか。
それとも、それは何の努力もなく自然に起こったのだろうか。

その段階では分離した個人という考えがないのに気づくだろう。あなたが生まれ出た瞬間に、「さあ、最初の呼吸をしなくては」とは言わなかった。
あなたは、生まれつき、どうすればよいのか知っていた。あなたは乳首にしゃぶりつくことを学んだわけではなく、生まれつき、どうすればいいのかを知っていた。

内在する知性は、あなたがあなたと呼ぶパターンを通して働きかけ、あなたを成長させた。そこには、何かをやったあなたという存在がいたわけではなく、― 内在する知性、生そのもが機能し、すべてを表現している。顕現はあたかも本物のように見えるが、そこには何もなく、エッセンス(実在)があるにすぎない。

仏陀は空即是色と言った。仏陀はそれを空と呼び、それでも真空や何もない空間ではないという。仏陀はそれを認識する空― 知性または知ることそのもので満ちた空― 認識そのものと呼んだ。

仏陀はまた逆に、色即是空とも言っているが、その意味は、様式化され形造られ具現化されるすべての物もまた本質は純粋な内在する知性エネルギーだということだ。

私たちは見せかけを現実として受け取っているために、実在の本当の姿が見えなくなっている。多くの聖典の中でそれは無知と呼ばれている。それは頭が悪いとか愚かだと言っているのではない― それは単に本当の姿を無視して、見せかけの姿を見ていると言っているにすぎない。

スピリチュアルな探究を10年、20年、30年と続ける人もいる。彼らは瞑想し、あらゆることを試みるが、自分が間違った場所を探していることに気付かないようだ。
あらゆる瞑想、あらゆる探究、何かを達成しようとするあらゆる試みは、必ず失敗に終わる。なぜなら、あなたは、自分がもうそれである何かを達成しようとしているからだ。

言っておくが、あなたはマインドの中には決して答えを見つけられない― なぜならマインドは二元的で― 常に変動している。
二元的に揺れ動くマインドは、いつも反対の方向に動くということがわかれば、あなたはどうするだろう?

知性はあなたが間違った場所を探していると知らせるだろう。どこへ行こうがそれがマインドの中だということに気づきなさい。マインドから出る方法は一つしかない― それはフルストップ― マインドにかかわらないこと。

自身にこう問いかけてみるといい。「もし今そのことを考えなかったら、何の問題があると言うのか?」

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2015年1月26日 (月)

セイラー・ボブ・アダムソン⑲(メルボルン)

The Spiel②

あなたが探し求めているものについて言うと、あなたはもうすでにそれなのだ。このことを調べたことのない人たちには酷なことだ。というのも、あなたは探し回って、自分の周りにあるあらゆる分離を見るだろうから。

そして言うだろう。「えっ、どうして分離などないと?」
そして私が言う。「じゃあ、あなたはその体なのか?心なのか?」

そしてもし一度も調べたことがなければ、「そうです」とあなたは言うだろう。しかし本当だろうか。
指し示すところをちょっと調べてみて、体の中に中心が見つかるかどうか見てほしい。

体のどこかに、ここからあなたが始まったという場所や、あなたがそこにいて、これが私だという場所があるだろうか?
たいていの人は、頭か胸かもしくはその他の場所から始まったと言うだろう。しかし本当だろうか?

もし体を調べてみれば、ここから自分が始まった、もしくは、ここが私自身だと言える場所はどこにもないということに気付くだろう。

体を調べてみれば、それが基本的な構成要素でできているのがわかるだろう。空気、土、火、水、空間― あなたを取り巻く構成要素と同じように。
もし自分が分離していると思うなら、自分自身を空気と分離してみなさい。水をあなたの体から取り除き、どれほど生きられるか見てみなさい。

地面から離れ、空間の外へ出てみなさい。体の熱、体温、火を取り除きなさい。それらの構成要素から、自分自身を分離できないことを知るだろう。

そしてそれらの構成要素は原子よりもさらに小さな粒子、純粋なるエネルギーへと分解されうる。
それゆえ、体は知性エネルギーの一様式そのものにすぎない。

私は神という言葉を使わない。それは混乱をもたらすからだ。私たちは皆異なるバックグラウンドを持つ。
無神論者もいれば、不可知論者もいる。キリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、モスリム、ヒンズー教徒などなど。

神について話せば、あなたは自分の伝統的な信仰と私の話を結び付けて混乱してしまうだろう。
私は知性エネルギーという言葉を使うが、私が知性という時、それはあなたの知性のことを言っているのではない。

自然を見てそれが、様式化され、形造られ、具現化されるのを見なさいと言っている。
銀河が形成され、地球や惑星が動き回り、季節が来ては去っていき、潮が満ちては引いていく。

それが意味するのは自然界全体はもともと知性に満ち溢れているということ、そしてあなたもエネルギーの一様式にほかならないということだ。
その知性があなたに呼吸をさせ、髪の毛や爪を成長させ、体の細胞を入れ替え、食べ物を消化させている。それはまったく自然に努力なく起こっていることだ。

ではあなたは心と呼ばれる物だろうか?調べてみて、心という物を見つけられるだろうか?あなたは正確にどこかの位置を示して、これが心だと言うことはできない。
私たちが心と呼ぶ物を通して「私はある」と翻訳される存在の感覚、振動するパターンのエネルギーがある。

しかし、もしあなたが心なら、あなたは思考なのか?心はすべて思考だ。そして思考は繊細なバイブレーション、エネルギーの動きだ。

「私はある」という思考がやってくる時、それは私たちが思考と呼ぶものを通して、あなたがいるという繊細な存在の感覚がバイブレーションとなって表れている。

繊細なバイブレーションとしての思考が振動しパターンとなってやってくるのはむしろ自動的だ。過去に関しては記憶として、未来に関しては、期待や想像となって現れる。
それは常に反対に向かって振動する。― 善と悪、快感と不快、幸福と不幸、愛と憎しみ、肯定と否定。自分の心を見つめ、それ以外のやり方で心が機能するかを見てみなさい。

その原初の思考が「私はある」という思考だ。さてあなたはその思考なのか?「私はある」という思考はあなたと一緒に一日中いる訳ではないことを理解しなさい。もしあなたがその思考なら、それを見失ったりしないだろう。

一日中、たくさんの別の思考がやって来る。あなたが眠っている時や、麻酔にかけられたり無意識の時には「私はある」という思考は無い。「私はある」という思考が無い時、あなたは消滅したりバラバラになったりするだろうか?それとも、知性エネルギー、生そのものが機能し続けているだろうか?だとすると、どうしてあなたが思考でありえるだろうか。

***

筆者(拓)注:I am「私はある」という訳は、「私はいる」とした方がわかりやすいのですが、そうすると、実体としての私がいるように解釈される恐れがあるのと、精神世界の本では「私はある」が定訳として定着しているので、「私はある」と訳します。
これはどういう意味かと言うと、「純粋なる知性エネルギー」が意識となって現れた感覚のことです。実体のある私がいると言っている訳ではなく、そこに何者か(知性)がいるという感覚が意識となって現れて、それに、I am「私はある」というラベル(概念)を貼っているにすぎません。
体(body)にも、心(マインド)にも、私と言う実態はいない。それでもなお、I am「私はある」という感覚があり、それが、「純粋なる知性エネルギー」をうかがい知るポインター(指し示すヒント)なのです。

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2015年1月25日 (日)

セイラー・ボブ・アダムソン⑱(メルボルン)

長々とセイラー・ボブ・アダムソンのことについて書いてきましたが、一番良いのはボブ本人の話を直接聞くことです。
そこで最後に、ボブ本人の話を翻訳掲載します。

私が読んだ書籍の中では、カリヤニ・ローリー、ピーター・ローリーが編纂した書籍「A Sprinkling Of Jewels」のP7からP15までが、いつも行われるボブの講和の冒頭部分をもっともうまく再現収録してあるので、カリヤニ、ボブ両名の了解のうえ、ここに翻訳掲載します(全5回)。

出典は以下の本のP7からP15までの、The Spielの部分。

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Lawry編纂

この本はボブの講和の冒頭の部分(私が翻訳する部分)に続き、厳選された短いボブの言葉とともに、ボブ本人と彼の自宅とその周辺を撮ったコンパクトな写真集になっています。非常に美しい写真集で、中の英語もわかりやすく、英語がそれほど得意ではないという方にもお薦めの一冊です。
上のサイトで購入すると、36ドル(本と送料込代金)でカリヤニがオーストラリアから送るそうです。

ボブは自分の話を、冗談まじりに、The Spiel(長い演説)と言って話を始めます。

***

The Spiel①

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもない。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎない。

たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、誰かがあなたに何かを与えることもなければ、あなたが受け取ることもない。
それは、あなたがもうすでにそれなのだという何かであり、あなたはそのことに気がつきさえすればいいだけのこと。

そのことは、あなたがもう知っていることなのだが、もう一度再認識する必要がある。なぜならそれは容易に見失われるものだからだ。
このことは、信仰や宗教とは関係がなく、概念や知識とも違う。そしてまた目新しいことでもない。

詳しく調べれば、このことはすべての偉大な伝統に含まれていて、その基礎となっているとわかるだろう。それは明快かつ直接に、あなたの自然な状態を指し示すものである。

あなたは、もうすでに、あなたが探し求めているものなのだ。探し求めることこそが問題だ。なぜなら、探し求めるということは、将来に見つける何かがあるということを意味しているからだ。

例えばヒンズー教では、彼らはそれをアドヴァイタと呼んでいるが、それは非二限性と翻訳される。非二限性を説明するために彼らは「他には何もない一つのもの」という表現を使う。それは、一つという概念でさえ、他にもう一つのものがあることを暗示しかねないからだ。
「それ」以外のものがあるという考えを打ち消すために、彼らは「他には何もない一つのもの」と言う。

仏教の伝統の中にも同じことがある。ゾクチェンはその究極の教えだが、その中で、それは非概念的で、常に新鮮、遍在する意識そのもので、それ以外のものではないものと言われている。繰り返しになるが、「それ」はそこにあるすべてを指している。

多くの伝承や聖典は、いわゆる真理や実存について伝えているが、それは遍在、全能、全知のものであるという。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面― 完全な遍在性、完全な力、完全な知性のことだ。

この完全性の他に何があると言うのか。そしてその完全性の中で、何を、そして誰が探しているというのか。

あなたは、私たちがそれぞれ分離した存在、個人だという誤った信念を抱いていて、その誤った信念のせいで、自分が完全ではないと感じているのに気づくだろう。
その分離の感覚が起こると、不安定で傷つきやすくなり、そこから探し求めることが始まる。

それは、物事の道理がわかり始める二歳ごろから始まる。以降、人は安全を探し求め、そのことが問題となる。
分離した存在という二元的な考えから始めて、非二元性を手に入れようと試みるが、それは不可能だ。なぜならもともと分離などないからだ。

多くの文献や聖典では、このことを顕現と読んでいるが、それは見せかけのことを言っているにすぎず、それはそのように現れるしかない。
もし詳しく調べるなら、それがバイブレーションとなって現象として現れなければ、どんな顕現も現れえないということがわかるだろう。

夜なくして昼があるだろうか、ざわめきなくして静寂があるだろうか、静止なくして動きがあるだろうか、夏なくして冬があるだろうか、引き潮なくして上げ潮があるだろうか。

すべての顕現は形造られ二元的に現れる。しかしそれは束の間のものだ。それは常に変化し続け、定義づけできず、実在とは言えない。
実在の定義は決して変化しないものだが、顕現は常に変化している。それはそのように見えているにすぎない。

私たちはそれが現実で確固とした実体あるものだと信じ込んでいる。それも詳しく調べれば、本当のことではないとわかるだろう。
あなたはあれやこれやを信じているかもしれないが、絶対的に確かだと言えることは何だろう?
あなたは、自分が実在すると信じているのか、それとも自分が実在することを知っているのか?

信じているということと、知っているということでは微妙な違いがある。あなたは知っていることを否定することはできない。「私はいない」と言える人は誰もいない。
そのことについて、あなたが何を信じていようと、実際にはあなたは自分がいるということを知っている。

しかしながら、自分が何なのかということを、あなたは知らない。あなたはある種の概念を身につけ、自分が知っているということと結び付けている。
そのことが現実― あなたが一度も分離したことなどないという現実を直視するのをさまたげている。

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2015年1月24日 (土)

セイラー・ボブ・アダムソン⑰(メルボルン)

今日は、今まで長々と書いてきたセイラー・ボブ・アダムソンの教えを私なりにまとめてみます。
これは私が勝手にまとめることであって、ボブは、これが彼の教えだなんて全く公認していません。

そもそもボブの教えの全体を、短いブログで紹介しようというのは無理です。もともとこのブログは旅ブログなんですから。
しかも、大胆にも今日はその教えを箇条書きにしようとしています。でもやっちゃいます。

①自分が自分だと思っている存在は実在しない。

②私たちが目にしている万物は幻影である。

③私も含めて、万物はそれ(純粋な知性エネルギー、純粋な気づき・意識、他には何もない一つのもの)である。

④時間は人間の思考の中にだけしか存在しない。

⑤死は存在しない。

⑥私たちはもうすでにそれであり、覚醒する人はどこにもいない。

⑦今この瞬間、すべては完全な状態にあり、何の問題もない。

⑧五感にまんべんなく注意を向け、今この瞬間を生きること。

***

もし、私たちが、ボブの言うように、自分という存在は実在せず、自己と他者は一つのものであるということが、本当に心から理解できたら、どうなるでしょうか。

関係性にまつわるすべての問題はすべて消え去ります。あなたが私を傷つけた。私が彼を裏切った。私より彼の方が金持ちだ。私はあの人より不幸だ。そういった問題はすべてなくなります。

自己と他者が一つであり、人間も動物も物も実は一つのものだと理解すれば、万物に対して、途方もない愛情が生まれるのではないでしょうか。

死は存在しないと理解すれば死の恐怖は消えます。たとえ恐怖が消えたとしても、病は人の常、癌にかかって死ぬことだってある。でも、自分が肉体でも思考でもなく、死は単にエネルギーの変化にすぎないと理解していれば、安らかに死を迎えることができます。

すべての問題は幻影の自己が勝手にしがみついている架空の参照点によるものだと理解すれば、悩むことすらばかばかしくなる。

私たちは、過去を悔やむ必要もなければ、未来に向けて不要な心配をする必要もなく、ただこの瞬間を起こるがままに任せて生きていけばいいだけです。

私は、この旅に出る時、なぜ自分が世界一周を始めるのかよくわかりませんでした。得体の知れない不安を感じながら、それほど世界が見たいわけでもないという気もしていました。

この旅も私が選択しているように見えても、実は「純粋なる知性エネルギー」が私を通じて表現しているにすぎず、私はただ生かされているにすぎません。

もし旅に出ていなかったら、もしまだ会社勤めをしていたら、きっとメルボルンに来ることはなかったでしょう。もし仮に来たとしても、短い休暇の旅では、ボブの教えの全体を理解することはなかったと思います。

ある時ギルバートが言いました。ボブの教えをちゃんと理解しているかどうかの基準は、困難や問題が起こった時、その参照点に捕らわれているかどうかでわかると。

私はボブの教えを学びましたが、自分が覚者であるという自覚は、今のところ全くありません。ボブの教えが本物かどうかも、今の時点でははっきりわかりません。

それは私が、この先どう生きるかでわかると思います。
五年後、十年後に、参照点をものともせず、死をも恐れぬ覚者になっているかどうかで、ボブの教えが本物かどうか、ボブの教えを正しく理解しているかどうかがわかると思います。(こんなことを書くとボブに叱られます。時間は存在しない、それは今だと。)

長い間、私の説明に付き合っていただきありがとうございました。

明日からはいよいよ本人登場で、ボブ自身の講和の翻訳を掲載します。

まだボブの話は一週間ほど続きますが、私の説明は今日で終わりましたので、ご自由にコメントしてください。

2015.3.18追記

ボブの教えの核となる部分は、「私が私だと思っている私は実在しない」ということだと思います。それを自分で調べて理解すれば、他のことは自然に起こってくる。

エンライトメントする私もいないし、万物はただ一つのもので、すべてはその現れであるというような理解は、二次的なものとして、自然に起こってくる。

2015.3.24追記

ボブの教えを頭(思考、マインド)で理解しようというのは無理です。ボブは常々、"Answer is not in the maind."(答えはマインドの中にはない)と言っています。頭で理解しなくて、どうやって理解するんだろうと最初の頃は思っていました。

ボブは"Ring the bell"(心に響いたかな?)という風に聞く。ボブの話は、真理そのものではなく、ポインター(指し示すもの)でしかない。そのポインターのどれかが、心のベルを鳴らし、心に響いて、ああ、それは本当だな、という理解が起きれば理解したということ。

ボブ本人も、周りの人も誰も、万物が一つのもので、それが現象となって現れ出ているということを、論理的に説明できる人はいない。ボブの指し示すポインターのどれかが心に響いて、確信となった時、理解したということ。

そして一つ大切なことは「私は理解した。あなたは理解していないゲーム」をしないこと。わからないならわからないで、何の不都合も違いもない。どちらもエンライトメントしていることに変わりはない。わかったフリをしなくていいし、わかったからと言って、私はわかった、あいつはわかっていないなどと言う必要もない。

ボブはそのゲームをひどく嫌う。わかったから偉いわけではないし、わからないからといってダメな人というわけではない。ボブも私たちも、同じように、もうそれなのだと言う。

ボブの教えは、志のある人には誰にでも容易に理解できる教えで、特定の選ばれた人にしか理解できないような難解なものではなく、シンプルなもの。理解すると言っても、それは論理的な理解ではなく、あくまで感覚的なもの。ボブの教えが必要な人なら誰でも必ず心に響く瞬間がやってくる。頭で理屈をこねくり回して理解する必要はない。

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2015年1月23日 (金)

セイラー・ボブ・アダムソン⑯(メルボルン)

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五感を開いて、意識をまんべんなく五感に向けて、この瞬間を生きる。

大事なところなので昨日の補足をもう少し。
私たちは、今まで受けた条件付けのせいで、様々なラベル(概念)を貼りつけて物を見ています。

あれが、拓ちゃん、あれがボブ、ギルバート、トビー、ラーム。人の名前もラベル(概念)にすぎません。
椅子、カーペット、時計、すべてにラベル(概念)が貼りついています。

マインド、宇宙、万物、こうした言葉もラベル(概念)です。言葉にした瞬間にラベル(概念)が貼りついて、そのもの自体ではなくなってしまい、概念になってしまいます。

すべては、one essence(ボブの語彙の中から別の表現にしてみましたが、純粋なる知性エネルギーのことです。アウエアネスも同じ意味です。)が、具現化して、現象(見せかけ)の世界に現れでたもの。

それに私たちが勝手に名前(ラベル・概念)を貼りつけてそう呼んでいるだけです。あなたの見ている世界は記憶というラベル(概念)で成り立っている。
ボブは、そのラベルをすべて取りなさいと言います。

ラベル(概念)を外せば、万物はみな同じ一つのもので、そこには境界はない。
そこには過去も未来もない。その瞬間だけがある。

私たちは、夜夢を見ますが、朝になると、それはどこかへ消えていく。
それと同じように、昼間も夢を見ているにすぎない。ただ違うのは、誰かが、これは夢なんだと叫んでも、誰も覚めることはないということ。すべては実体のない幻影。

私たちが見ている現実は、鏡の中に写っている風景と同じ。あたかもそこには何かがあるように見えるが、実際にはない。そして私たちは鏡。

鏡の中では、良いことも悪いことも起きる。
しかし、それを写している鏡(私たち)は、鏡の中に何が写ろうが、影響されない。

ある時誰かが、「ポジティブに考えた方がいいので、そうするようにしている」と言ったらボブは言った。

「鏡の中がポジティブだろうがネガティブだろうが、鏡は影響されない。シェイクスピアは言っている。良いとか悪いとかは、人間が勝手に決めていることで、本当は良いも悪いもないと。マインド(思考)そのものが善悪の間を二元的に動く。しかし、マインド、思考には何の実態もない」

私たちは、人生で起こる出来事を、(あれは良かった、これはひどかった)と勝手にラベルを貼り、(こんな良い事が起こってほしい、あんなひどいことは起こってほしくない)と考えます。でも、それはすべて自分で勝手に良いとか悪いというラベルを貼っているだけで、良いも悪いもないのです。

すべては鏡の中に写る出来事にすぎません。問題は、その鏡に映る一部分は良くて、一部分は良くないと勝手に判断することです。どちらも単なる幻影です。

思考がどこからくるかを突き止めようとしたり、それを良い思考、悪い思考と選別するのは意味のないこと。そこから抜け出す方法は、Full Stop!
この瞬間にとどまりなさいと言う。

すべてのラベルを剥がした時に何が起こるか。そこにはあなたを縛り付ける参照点も、過去も未来もなく、あるのは今この一瞬だけがあり、そこには何の問題もない。

ボブは、進行形の(-ing)の中に留まりなさいと言います。「私が~をする」と言った瞬間に、「私」が現れて、行動と私の間に分離が起きます。
五感(seeing,hearing,tasting,touching,smelling)は、私の思考以前に存在します。

試しにちょっと思考を止めてみてください。(タク、タク、タク、タク、Full Stop!)
そうすると、次の思考がやってくるほんのわずかの間、seeing, hearing, tasting, touching, smelling は一人でに自然に機能しています。

思考より以前にあるその瞬間、純粋なる意識、本当の自分を生きてみてください。

2015.3.17追記

ボブは、seeing, hearing, tasting, touching, smelling は、awereness(アウエアネス、意識、知性エネルギー)そのものだと言います。私の目が物を見ていると思っているのは間違いで、awareness(気づき・意識)の中に現象として物が現れている。目は単に器官として働いているにすぎず、awareness が無かったら何も見えない、という言い方をします。

見る人(主体)もおらず、見られる物(客体)も実在せず、seeing(アウエアネス、純粋な気づいている意識、知性エネルギー) だけが起こっているという言い方をします。ボブの言うアウエアネスとは、個人の気づき(意識)のことではなく、知性エネルギーのことです。(ボブは時々、個人のawareness  と区別するために、universal awarenessという言い方をする時もあります)

「でも、seeing(見ること)は、人間の目があるから起こっているのであって、私に属しています。もし、そこに私がいなかったら、つまり、私の目や耳が無かったら、そこにawareness は、あるのでしょうか?」と聞いた。

「例えば、あなたが眠っている時を考えてごらん。あなたは眠っていて、目も眠っている。ところが耳はどうだろう?もし、誰かが耳元で、起きるように言えば、あなたは起きる。あなたは眠っているが、耳だけが起きているというのではない。そうではなくて、そこにはアウエアネス(気づき・意識)そのものがある。あなたのアウエアネスが聞いているのではなく、アウエアネスがあなたを通じて機能しているにすぎない」

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2015年1月22日 (木)

セイラー・ボブ・アダムソン⑮(メルボルン)

あなたが選択したことなど一度もなかった。

私たちは、自分の人生を自分で生きてきたと考えています。どの学校へ行くかを自分で選択し、仕事を自分で選んで職に就き、恋人を自分で選んで恋に落ち、家庭を築いたと考えています。

ところが、ボブの教えでは、そもそもその自分という存在が幻影であるという。じゃあ一体誰が学校を選び、誰が仕事を選んだのか。恋人を選んだのは誰なのか。

誰でもありません。すべては起こるべくして自然に起こったのです。
あなたは、自分があれこれ選択して人生を生きてきたと思っているが、果たしてそうでしょうか。

あなたは両親を選んで生まれてきましたか?あなたが選んだ仕事はあなたの選択ですか?
あなたに自由裁量権はありません。それは自分で選んでいるかのように見えるかもしれませんが、あなたの選択ではありません。

そもそも、その選択肢は誰が用意したのですか?
自由な選択が許されているなら、もっと別の仕事や、別のパートナーを選んでいたのではありませんか?

呼吸の一回、鼓動の一回だって、あなたの意志でやったことなどありません。
すべては自然に起こるべくして起こって、すべては完璧で、何の問題もありません。
勝手な参照点を作って困っているのは、幻影の私自身です。

すべては「純粋なる知性エネルギー」が、あなという幻影を通して表現しているだけのことにすぎません。
私たちは、自分で生きていると思っていますが、実は生かされているにすぎません。

起こるべきことは、あなたが努力しようがしまいが、避けようが避けまいが、起こるべくして起こるのです。
だとしたら、何を心配する必要がありましょうか?

ボブの教えを学ぶと、生き方がシンプルになって、とっても楽になります。
後悔する過去はなく、憂うべき未来もない。あるのはこの瞬間だけ。

これは、何かに向けて努力をしなくてもいいとか、場当たり的刹那的に生きろということではありません。
努力や準備が必要な時には、自然とそれが起こるというのです。

ボブは、spontaneouslyに生きろ、と言います。
リーダース英和辞典で、spontaneousを引くと、

自発的な、内発的な、任意の、無意識的な;<文体など>(無理が無く)自然な、のびのびした 2自生の<樹木・果実>;自然にできる、自然発生的な、自発性の

となっています。

spnteneouslyに生きるとは、条件付けや参照点にとらわれないで生きること。これは条件付けだ、これは参照点だと思った瞬間に問題は起こってきます。これは条件付けだとか、これは参照点だと思う必要もなく、あるがままに生きること。

川の流れが止まったら、水は淀んでしまう。常に流れ続けて生きること。
問題の解決は、自然に起こってきます。そもそも問題など何もありはしないのですから。

そして、今日まで長々とボブの教えについて書いてきましたが、私が考えるボブの一番大事な教えをこれから書きます。

私はいない、万物は一つのもの、時間はない、死は存在しない。こういうことがどうしても理解できない人はそれで構いません。

でも、これだけは万人に役に立つと思います。

ボブは、五感を開いて、意識をまんべんなく五感に向けて、この瞬間を生きなさいといいます。

人は、あまりにも思考にとらわれ過ぎていて、多くのエネルギーを失い、思考はあなたを過去や未来へ振り回し、ありもしない参照点を持ち出して困らせます。
もちろん思考は使い方によっては重要な働きをしますが、問題はそれに囚われてしまって、肝腎な、目の前の今を生きようとはしないことです。

五感(見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること)を開いて、そこにまんべんなく意識を注ぎ、今を生きること。これこそがボブの教えの神髄のような気がします。

2015.3.11追記

盤珪(ばんけい)について

ボブは講話の中で時々、江戸時代の臨済宗の禅僧、盤珪を引き合いに出します。彼が盤珪の話をする時は、"unborn mind"(不生の心)の中では、物事は完璧で、どこにも問題なんてないじゃないか、なぜそれをマインド(思考)で置き換えてしまうのか、と盤珪は言っているという風に言います。(盤珪の話は、「ただそれだけ」のp119にも載っています)

unborn mind(生まれる前の心)とはどいう意味かというと、生まれる前の心(マインド)には思考がない。思考がなければ、何も問題なんてないじゃないか、と言っているのです。ボブの言葉で言うなら、"What's wrong right now, if you don't think about it"(今そのことを考えなければ、何も問題ないじゃないか)です。

思考が無い状態とはどういう状態か。Full Stop! ほんのわずかの時間でも、思考を止めてみるとわかる。そこに思考は無くても、seeing, hearing, smelling, touching, tasitig は自然に起こっている。

そこに思考がなければ、見ている人(私、主体)と見られる物(あなた、客体)の区別は無く、ただseeing(見ていること)だけが起こっている。そして、それが、awareness(気づき・意識) すなわち、知性エネルギーの現れであるという。

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2015年1月21日 (水)

セイラー・ボブ・アダムソン⑭(メルボルン)

条件付けの解除、参照点と瞑想

私たちは、大人になる過程で、周りの大人から様々な条件付けを植えつけられます。
それはそうせざるえないのです。それがなければ生きていけませんから、それは避けられません。

そうした条件付けのせいで、自分が分離した個人ではないことを忘れてしまいます。分離した個人という視点から、他者も同じように分離した存在であると考えるようになります。

これがおじさん、あれがおばあさん、これが椅子、あれが机で、あれが電車、という具合に様々なラベル貼り(概念の植えつけ)が行われるせいで、物事を初めて出会った時のような純粋な視点から見ることができなくなります。

本当は個人など存在しないのですが、私たちは、人に貼りつけたラベルをいつまでもひきづって、その人を勝手に概念づけて見ています。一週間前に会ったその人と、今日会ったその人は、もう同じ人ではありえないのに、勝手にその人に貼ったラベルで判断して見ています。

また、自分自身にもたくさんのラベルを貼りつけて、それに縛られています。私は臆病だ、私はシャイだ、私は勤勉だ、私は誠実だ、私は自尊心がない。
本当の私は、そうしたラベルとは関係なく、度胸のある時もあれば、社交的な時もあるし、怠惰な時もあるのに、ラベルに縛られた人格を演じることになる。

また、過去に人に傷つけられた記憶や、自分が犯した過ち、悲しかった出来事なども参照点となって残り、時々思考となってやって来ては、私たちが伸び伸びと生きるのを妨げたり、本当はそれほどの問題でもないのに、そうした参照点と結びついて、大問題かのように見えて、私たちを困らせます。

成長する過程で身につけたいくつもの条件付けやラベルが参照点となって残り、物事の本質を見えなくしてしまいます。

そして人々は、そうした条件付けを解除するために、セラピー(療法)や瞑想が必要なのではと考えがちです。
しかし、そうした行為(セラピーや瞑想)は、ボブに言わせると、玉ねぎの皮むきのようなもので、むいてもむいても後から皮が出てきて無駄だと言います。

では、どうしたらいいのでしょうか?

What is wrong right now? if you don't think about it. 今、そのことを考えなかったら、何も問題ないじゃないか?

ボブに言わせると、解決は瞬時だそうです。そもそも、問題自体がもともとありはしない。問題を生み出しているのは自分の思考。あたかも問題があるかのような見せかけの参照点にしがみついているのは、そこにいるはずのない幻影の自分です。(書いている私も何かムチャクチャなことを書いている気がしないでもないですが、それがパラドックスです)

さて、瞑想とは一体何でしょう?

私は何年にもわたって、様々な瞑想をやりました。呼吸を見つめるものから始まって、飛び跳ねたり踊ったりするもの、テープを聞いて変性意識に働きかけるものなどなど。

そうした瞑想は、心(マインド)を静めるのには役に立ちます。でも、瞑想が終われば、またやかましいマインド(思考)は帰ってきますし、瞑想している最中にだって、思考が消えるわけではない。

ボブに言わせると、マインドがガヤガヤ騒いでいる状態も、静まっている状態も、どちらも同じだというのです。
人はよく、心(マインド)の平和と言いますが、マインドそのものの本質が平和ではありません。マインドの本質は二元性だからです。

私たちの本質である「他にはなにもない一つのもの」「純粋な知性エネルギー」「純粋な気づいている意識」はマインドが騒いでいようが静まっていようが、ビクともせずそこにある。

そして、私たちは、そこから一歩も踏み外したこともなければ失ったこともない。私たち自身がそれなのです。
それは探究をしたり瞑想をしたりして探さなければならない何かではないと言います。

ボブの教えでは、探究したり、瞑想することこそが問題なのです。そこに、探究する人もいなければ、瞑想する人もいない。悟りを開かなければいけない人もいない。
それを探し求めなければいけない自分がいるという思いこそがつまづきの始まりです。

ボブの教えを学べば、もう探究の必要もセラピーも瞑想も必要もありません。
問題はもともと、どこにも存在しなかったのです。私たちは「他には何もない一つのもの」「純粋な知性エネルギー」「純粋な気づいている意識」(便宜上私は勝手にこの三つの表現を採用していますが、ボブはケース・バイ・ケースでもっと多様な表現を使います。全知、全能、遍在の存在、空間的意識、認識する空、永遠に新鮮なもの、存在意識、気づき、意識、それ、などなど)です。

それはもともとそれ自体で完全なものであり、どこにも問題などありません。問題があると思い込んでいるのは、そこいにいるはずのない幻影の私です。

注:何か最近、ブログにボブが乗り移ったかのように、マスター口調になってきていますが、いちいち「~とボブが言ってます、~とボブが言いました」を付けるのが面倒なので、こうなりました。私が偉そうに言っているわけではなく、それが言っていることだということにして、ご理解を。

2015.3.24追記

私は長年にわたって、様々な瞑想をやってきました。確かに中には一時的に心を静めてくれる瞑想もありました。でも、瞑想は物事の根本的な解決にはなりえませんでした。瞑想こそがゴールへの近道だと説くマスターもたくさんいます。でも今ははっきりとそれが間違いだっとわかります。

ボブは言います。人々は何年にもわたって探究や瞑想を続ける。彼らは、探究の道という山登りをやっていて、ふもとから山頂を目指して登り続けるが、決して山頂にたどり着くことはない。それはスタート地点が間違っているからだ。山頂から始めなさい。私たちは、もう山頂にいて、どこへも行く必要はない。自分たちはもうそこにいるという事実から始めなさい。

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